2006年 02月 20日
バスは行きとは違い今度はラ・プラタ川をグルっとまわるように陸伝いに走ってブエノスアイレスを目指した。夜中の2時半、寝ていたところを起こされて、国境事務所で簡単なチェックを受けた後、またバスに戻って眠った。次に目を覚ました時にはもう7時前でレティーロバスターミナルに到着する寸前だった。運良くサンマルティン広場からユースに向かうコレクティーボに乗ることができ、つつがなく宿に戻ることができた。すでに何人かの宿泊客が起きていて、モンテビデオはどうだったと冷やかし半分に聞くので、ぜひ行った方が良いと本気で薦めておいた。別に目的などなく、いやただその街をこの目で見てみたいという気持ちだけで充分だと、この時には感じるようになっていた。さすがに夜行バスであまり眠れなかったせいもあり、昼過ぎまでまた眠ってしまった。 起きるとお腹が空いていた。またアサードでも良かったが、さすがに3日連続で牛肉ばかり食べていてもどうかと思い、ロンプラに乗っていたピザ屋に行ってみることにした。それはモンセラート地区というところにあり、ちょうど国会議事堂とその前にある国会議事堂広場に面してある小さな店だった。店内に入り、小さい方を注文したがなかなか出てこない。自分が座っている横では中年のおじさん達がピザを一切れずつ食べていた。これはまずいと思った矢先、3人分以上はあろうかという巨大なピザが出てきた。おそらくここでは一切れ単位で注文するのが基本だったようだ。ただ頼んでしまった以上、それを意地で食べつくした。量はすごかったが、だからといって味が落ちるということではなく、そんな大きなピザでもなんとか完食できたのはすこぶる美味しかったからに他ならない。 国会議事堂広場からは港の方に向かって真っ直ぐに5月大通りが伸びていた。ここをゆっくり歩きながら進んでいくと、7月9日大通りと交差した。さらに行くと街で最古のカフェバーらしいカフェ・トルトーニの前に出た。ここは素通りして、市議会として使用されているカビルドを過ぎると、5月大通りの最後となる5月広場があり、先にはピンクの壁が珍しい大統領府が建っていた。この5月広場こそがブエノスアイレス発祥の地で、アルゼンチンの歴史の中で数々の事件が起こった場所でもあった。しかし、今ではアイスクリーム屋の屋台や露天商がいるのんびりとした静かな広場だった。この広場のベンチに座り、日本から持ってきた文庫本を読んだ。南米では移動時間はバスが多く、思いのほか本を読む時間が少なかったので、これがまだ旅に出て読む本の2冊目だった。何を読んでいたのかは忘れてしまったが、熱中していたせいかあっという間に時間が過ぎてしまい、気がつくとIさんと待ち合わせをした時刻になろうとしていた。そういう時にかぎって、バスはなかなか来ない。ようやく走ってきたバスはなんと同じ番号が2台続いていた。なんとか無事に待ち合わせ場所に到着したが、そこはラ・プラザというショッピングセンターだった。これまで南米というイメージを覆すヨーロッパ的な街並みのブエノスアイレスだったが、このショッピングモールはアメリカのそれのようなお洒落な場所で、こんなところもあるのかとブエノスアイレスのある意味、奥深さを思い知った。 #
by gonburimo
| 2006-02-20 23:33
| South America 1998
2006年 02月 19日
モンテビデオに行ってくることを言うと、同じ宿に泊まっていたほぼ全員から、何のためにとか、どうしてとか聞かれ、しまいにはやめといた方が良いとまで言われた。別に治安が悪いからやめろと忠告されているのではなく、本当に何もないからという理由からだった。逆にそう言われると、では自分の目でそれを確かめたくなるのが、旅人の常というやつで、メインのバックパックは宿に置いておき、小さなリュックで朝になって出かけた。ここからモンテビデオまでは、ラ・プラタ川 を渡って対岸ウルグアイのコロニアまで行き、そこからバスに乗っていく方法を取った。港で出入国審査が同時に行われ、船に乗る前からパスポートにはウルグアイの入国スタンプが捺されていた。コロニアまでの高速フェリーは席に座っている客も疎らにもかかわらず、採算を度外視したかのように豪華な船で驚いたが、船内の案内表示板にアラビア文字が使われていたのを見て、アラブのどこかの国で使用されていたものを中古で使っているのではないかと思われた。しばらくして、船はゆっくりと動き出した。 いくら河口付近とはいえ、ラ・プラタ川 は海かと思えるほど幅が広く、対岸のコロニアまで高速フェリーでも1時間もかかるほどで、そういえばスペインのアルヘシラスからモロッコのタンジェまでジブラルタル海峡 を渡った時も、このくらい時間がかかったことを思い出した。コロニアの港ではバスが待機していて、そのまますぐに乗客のほとんどが乗り込んだ。これがウルグアイの景色かというほどの変化はなく、当然言葉も同じスペイン語なので、時々見える看板表示などもアルゼンチンと変わらない。もしかすると、お互いの国の人にはわかるのかもしれないが、アルゼンチン人とウルグアイ人の違いも自分には判別できなかった。そんな風景を眺めているうちに寝てしまい、気づいたらもうモンテビデオ市街に入っていた。バスが到着したトレスクルセスターミナル は、アメリカのモールを思わせるようなそれはモダンな建物だった。少し郊外にあるため、中心部までバスで向かった。 モンテビデオは7月18日大通り と呼ばれるメインストリート周辺が一番賑やかなので、その周辺でバスを降りた。通りはホテル・レストラン・商店と全てが揃っていてなかなかお洒落だった。途中にある>カガンチャ広場 にある観光案内所で市内地図を貰い、さらに進むと独立広場 に出た。この広場にある門をくぐった先から旧市街が始まった。確かにこれまで歩いてきた新市街はビルが立ちならぶ都会だったが、ここからは道も歩行者天国になり、建物の高さも急に低くなって雰囲気がガラっと変わった。旧市街の中心は憲法広場 というヨーロッパにあるような石畳の広場で、さっそく買った絵葉書を広場に面していたカフェに入って書き始めた。ブエノスアイレスもそうだったが、モンテビデオもどこかヨーロッパを思わせるような街並みで、それはスペイン・イタリア系が90%を占める人口比率にも影響しているのかもしれなかった。さらに旧市街を進んでいったが、道が狭まり、人気が少なくなってきたのが気がかりだったが、警戒しながら歩いていくと、目指していた市場 が見えてきた。このラ・プラタ川 に面したモンテビデオ港 に隣接する100年以上の歴史を持つ市場 では、ウルグアイ名物のパリージャレストラン 、つまり焼肉屋が多く入っていて、煙が充満した市場内は食欲をそそる匂いが充満していた。カウンター席で簡単に食べられる店に入って、適当に注文するとお決まりの分厚い肉と山盛りのフライドポテトが出てきた。昼食兼夕食にして、もう食べられないというところまでむさぼるように食べた。膨らんだお腹を抱えて市場を出ると、目の前にラ・プラタ川 が広がっていた。宿でみんなが言うほど何もなくはなかったが、1泊するほどでもないモンテビデオだったので、その後にまた新市街まで戻って時間をつぶした後、この日の夜行バスでブエノスアイレスまで戻ることにした。 #
by gonburimo
| 2006-02-19 22:27
| South America 1998
2006年 02月 18日
ゆっくりと起き出し、昨日スーパーで買っておいたパンとヨーグルトの簡単な朝食をとった。これも冷蔵庫があるおかげであり、冷えた牛乳がさらに美味しかった。物価が少し高いことを除けば、ブエノスアイレスは治安も悪くなく、実に居心地の良い街だった。ほとんどの道が一方通行なので、コレクティーボ に乗っても迷うことがほとんどなく、適当な場所で降りて歩けば地下鉄の駅か、また別方向に向かうコレクティーボ がやってきて、また元通りの場所に簡単に戻ることができた。歩行者天国の歩道では路上でタンゴ を踊るペアがいて、わざわざ高いお金を払って劇場に行かなくても、本場のタンゴ を楽しむことができた。そして、なんといってもアルゼンチンで嬉しかったのは肉料理だった。アサード と呼ばれる肉の炭火焼が名物で、特に名産の牛肉が半端な量ではなくもの凄い大きな塊が安い値段で食べられ、味付けは塩と胡椒にレモンをかけるくらいだが、軽く平らげることができた。またパリジャーダ というソーセージや臓物の炭火焼もボリュームがあり、男3人で食べるのがやっというぐらいの量だった。 お昼にそんな肉の塊を食べてしまうと、暖かい気候も手伝って睡魔に襲われるに決まっている。そういう時は逆らわずに、宿に戻って昼寝をして、また夕方街に繰り出した。アルゼンチン人の夜はゆっくりなようで、夜遅くまで店が開いていて、街も明るかった。さすがにもう肉は食べれないので、カフェで簡単に夕食を済ませた後、また映画館に入った。この日に見たのはジェームズ・ボンドの最新作「007 トゥモロー・ネヴァー・ダイ 」だったが、これまた単純明快なストーリーで楽しめた。映画が終わっても、まだまだブエノスアイレスの夜は続いていて、この日も宿に変えるのは遅くなってしまった。 #
by gonburimo
| 2006-02-18 21:32
| South America 1998
2006年 02月 17日
ユースで出会ったⅠさんという方が、ブエノスアイレスにあるもうひとつのユースに移るというので一緒に行くことにした。市内を縦横無尽に走っているコレクティーボと呼ばれる路線バスに乗っていくこと1時間ほどでそのユースに着いた。一軒家を改装したようなこじんまりとした所だったが、宿泊客が共同で使える簡単なキッチンと冷蔵庫があり、宿の女主人も親切でこの宿が気に入った。荷物を置くと、書き溜めておいた葉書を出しに郵便局へ寄ってから、またコレクティーボに乗って街の中心地に行った。 一緒に宿を移ったⅠさんはブエノスアイレスの後は、リオデジャネイロでカーニバルを見る予定だった。そのため、ブラジル領事館でビザを申請してあり、それを取りに行くのにつきあった。領事館はブエノスアイレスを南北に貫く7月9日通り近くにあった。この通りの幅がとにかく広く、真ん中にはオベリスコという塔があり、また近くには世界三大劇場といわれるコロン劇場や国立セルバンテス劇場などの重厚な建物が並んでいた。昼食はCOTOというスーパーの2階にあるカフェテリアに入った。ここはロンプラで紹介されていた場所で、いろいろな料理が並んでいて、好きな物を取っただけ払うという仕組みになっていて、安かったので取ってみたビーフステーキもなかなかいけた。マクドナルドのセットが5ドルもしたことを考えると、このカフェテリアはお得感があった。 昼食後にⅠさんとは一度別れ、自分はフロリダ通り周辺にある旅行代理店をまわることにした。それはウルグアイのモンテビデオまでのチケットと、その後に行くつもりでいたバリローチェというパタゴニアにある街へのチケットを買うためだった。旅行代理店の店先のガラスには行き先と値段が書かれた札が貼られていて、だいたいの相場は理解できた。さて、どこに入るべきかと悩んだ結果、比較的混んでいる1軒に入った。応対してくれたお兄さんはとても丁寧にいろいろと教えてくれたので、なぜかスペイン語で説明されているのに、なんとなく理解できて、知らぬ間に希望通りのチケットが、思っていたより安く買うことができた。2週間旅していて、だいぶスペイン語にも慣れていたのかもしれないが、それでもあっさりしていた。チケットが手に入って先の日程が決まると、そう躍起になって街を見なくてもいいかなという気分になってきた。実はユースで出会ったヤニフというユダヤ人から、ブエノスアイレスでは映画が3.5ドルで見ることができるということを聞いていた。それも封切られたばかりのハリウッド映画でさえも、そんな安い値段で見られるというので、これ幸いとリチャード・ギアとブルース・ウィリスが出演していた「ジャッカル」という映画を見ることにした。上映は吹き替えではなく、スペイン語字幕で、さらにこれは読んだことのあるフレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」のリメイクだったので、内容はほとんど理解できた。わざわざブエノスアイレスまで来て、映画を見るなど思いもしなかったが、値段が値段だけにこれは病みつきになりそうだった。 #
by gonburimo
| 2006-02-17 22:40
| South America 1998
2006年 02月 16日
朝6時半過ぎに、バスはブエノスアイレスのレティーロバスターミナルに到着した。ターミナルはなかなか近代的な建物で、建物の外には月曜日の朝ということを差し引いても、通勤客なのか、かなりの人が歩いていた。すぐに宿に向かうため、地下鉄に乗った。車両自体はかなり老朽化した代物だったが、駅自体はきれいだった。この地下鉄で一番古い路線は1913年の開通といい、当時は日本からも視察団が訪れたらしく、東京の銀座線のモデルにもなっているらしいから、かなりの年代物だった。この時乗ったのはリネアCと呼ばれる路線で、ちょうどバスターミナルのあるレティーロ駅ら終点のコンスティトゥシオン駅まで端から端まで乗って行くことになった。 そのコンスティトゥシオン駅から歩いて10分ほどの住宅街にユースホステルはあった。ブラジル・パラグアイと個室に続けて泊まってきたので、この旅でドミトリーに泊まるのはこれが初めてだった。建物は大きな屋敷を改装して使っているような感じで、自分は1階にある薄暗い部屋をあてがわれた。2階に上がった部分に中庭のような場所があり、そこのベンチでは各国から来た旅行者が寛いでいて、懐かしいユースの雰囲気がそこにはあった。途中で買ってきたサンドウィッチを食べながら、ブエノスアイレスの地図を広げて、どうしようか考えた結果、まずは手元の現金が心細くなってきたので、持ち合わせていたTCが手数料なしで交換できるという理由から、アメリカンエキスプレスのオフィスまで行き、両替をすることにした。オフィスはバスが到着したレティーロバスターミナルのすぐ近くにあるサン・マルティン広場の一角にあった。アルゼンチンではフォークランド紛争以後、数度のデノミを行うほどのインフレに見舞われ、最後には自国通貨の1ペソ=1米ドルの固定制を導入していた。そのためか、街では米ドル紙幣がペソ同様、普通に使うことができ、米ドルで払うとペソでお釣りが来るという極めて不思議な体験ができた。というわけで、自分も米ドル建てTCをそのまま米ドル紙幣に両替してもらった。 両替した後、街を歩いているとブエノスアイレスで一番賑やかな通りであるフロリダ通りに出た。イタリアやフランスを思わせる洒落た店が並ぶショッピング通りで、さらに進むとそのフロリダ通りと直角に交わるラバージュ通りとコリエンテス通りという人通りの激しいふたつの通りに出た。ブエノスアイレスは南米のパリと呼ばれているとガイドブックに書いてあり、果たしてどんなものであろうと、来て見るまでは少し懐疑的であったが、この周辺を歩いていると、まさにその呼び名がぴったりと当てはまり、スーツをビシッと着こなした紳士や洗練された装いの女性たちが闊歩しているのを見ると、ここが南米であることを忘れてしまいかねないほどだった。街の雰囲気や地理的な構図を頭に入れておくために、その後も夕方までずっと歩きまわっていると、だいたいの位置的な関係は掴めてきた。とにかくブエノスアイレスは予想以上の都会であることがわかった。ユースに戻ると、数人から夕飯に誘われたので、コンスティトゥシオン駅周辺の繁華街にあった中国人が経営する中華ブッフェの店に入った。味付けはいまいちだったが、5ドルで食べ放題ならコストパフォーマンスはまずまずといえた。ユースに戻り、何人かの人と話をしたが、パタゴニアでトレッキングをするという人、またアンデスのどこかでロッククライミングをするという人、ブラジルのアマゾン川で釣りをするという人、彼らは何かしらの目的を持ってこの南米に来ていた。それに較べて、自分には何か目的があっただろうか。彼らの話を聞きながら、ひとり自問したがはっきりとした答えは出なかった。 #
by gonburimo
| 2006-02-16 21:36
| South America 1998
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