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カテゴリ:South America 1998( 33 )


2006年 03月 16日

ラパス 二日目

ラパスは本当に坂が多い街だった。盆地の形をしているから当たり前だが、宿から街の中心まで行くのもかなりの坂道を下っていく感じだった。その中心にある旅行会社でプーノ行のバスチケットを購入した。最後の国であるペルーにはバスで入ることにした。その後、メインストリートの7月16日通り を歩いていくと、サンフランシスコ寺院 の前に出た。ここから伸びる坂道が有名なサガルナガ通り で、まさにラパスの下町といった感じで、数え切れないほどの露店が並び、そこではインディヘナ の女性があらゆる物を売っていた。ボリビア南米の中でも特にインディヘナ や白人との混血であるメスティソ が人口の多数を占めている国で、街を歩いていても本当にそれが実感でき、イタリア系スペイン系が多いアルゼンチンチリから来たので、それが余計に目立った。

c0049109_0385420.jpg一度、宿に戻るとそこに泊まっていた日本人動物園 に行かないかと誘われたので、付いていくことにした。その前にサンミゲール地区 という高級住宅街に寄っていった。朝に歩いたセントロに較べると街並みも整然としていて、同じ国とは思えないほどお洒落な雰囲気が漂っている。なぜここが高級住宅地かというと、ラパス内で一番標高が低い場所であるからだった。普通、高級住宅地とは中心地から離れた高台の上にあったりするものだが、標高が3000mを越すこのラパスでは逆に低い場所こそが高級な地域となり金持ちが住んでいるのだった。その後、タクシーで動物園 に向かった。入場料が3ボリビアーノだから100円もしなかったが、ここに来たのはアンデス だけに生息する珍しいリャマアルパカ が飼育されていたからだった。良質なセーターの毛としても使われるほどだが、このラクダ科の動物はほぼ放し飼いのような状態で飼育されていて、現地の人は持ってきた餌を与えたりしていた。そして、やはりアンデス にはかかせないコンドル も飼育されていて、さすがに檻には入れられていたものの、土地があり余っているせいか檻は必要以上に大きく、しばらく見ているとコンドル が羽を広げて飛び立つところも見ることができた。その他にもピューマ など日本ではあまりお目にかかれない動物がけっこういて、値段からいえばかなりお得な動物園だった。

帰りに月の谷 という場所に寄りながら宿に戻った。南米にはなぜかこのような日本人が経営する日本人宿 が多かった。サンパウロリマの他にもチリ中米などにもあるようだった。中南米以外にも日本人の溜まり場と化している宿はいくつかあったが、経営しているのは現地人ということがほとんどだった。この日も夕食に日本食が出て、一緒に泊まっていた人たちと食べていると合宿所にいるようだった。
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by gonburimo | 2006-03-16 23:33 | South America 1998
2006年 03月 15日

ラパス

c0049109_23564118.jpg5時前にはユースを出たが、まだ辺りは真っ暗で少し緊張しながら空港行バスがでる大通りまで歩いた。珍しく定刻どおりにバスが来て、1時間もしないうちにアルトゥール・メリノ・ベニテス国際空港という長い名前の空港に着いたが、その時でもまだ空は暗いままだった。建物自体は小さかったが、造りはなかなかモダンで少し驚いた。出発掲示板を覗くと、当然だが南米北中米の都市へのフライトがほとんどながら、中にはヨーロッパへの直行便も数便出ているようだったが、日本に乗り入れていない航空会社が多く、それを見ているだけで楽しめた。簡単な出国審査を済ませると、搭乗ゲートの前には予想よりは大きめの飛行機が停まっていた。このランチリ航空ラパス行は途中にチリ北部のイキケとアリカに寄りながら向かう便で、そのため値段が直行便よりは多少安かった。飛び立つ時刻になって、ようやく空が明け始めてきた。

c0049109_23565822.jpg地図で見ればわかるようにサンチアゴイキケはだいぶ離れているが、イキケアリカ300キロほどしか離れていないので、イキケを飛び立つと水平飛行に入るかは入らない前にアリカに着陸を開始した。これは飛行機自体が小さいからできるのであって、ジャンボ機では距離が短すぎると飛べないとどこかで聞いたことがある。アリカからラパスまでのルートはちょうどアンデス山脈を横切る形になり、幸いにも雲もなく晴れ渡ってくれたせいか窓から雄大な景色を眺めることができた。そんな景色を楽しんでいると、いよいよラパスに着陸するとのアナウンスがあった。ラパスは標高3650mにある世界最高所の首都だが、その空港はさらに高い4000mの所にあった。チリと較べると国力の差なのか空港もどこか田舎の雰囲気を残していた。街まではタクシーで行くこととなったが、かなりの下り坂をそれもおばさんが運転する古い車で行くのはなかなかスリリングな体験だった。

このラパスで泊まろうと思っていたのはトキゲストハウスという有名な日本人宿だった。街の中心から少し坂道を上がった場所にあるそれは防犯対策の為か入口もわかりづらくひっそりとしていた。階段を上がると、オーナーの鳥海さんが迎えてくれたが、噂どおり宿の説明をとても丁寧な言葉使いでしてくれるのだが、その間1回たりとも笑わず、さらに渡された一枚の紙にはこの宿での決まりごとというかルールが細かな字でびっしりと書かれていたので緊張した。数台のベッドが並んだ部屋に入ると、すでに何人かの先客がいたが、誰もが快く挨拶をしてくれて雰囲気は良さそうだったので、ここに泊まることにした。ラパスに入って一番恐れていたのは高山病だった。本来なら時間をかけて徐々に高度を上げてくるはずが、ほぼ海抜ゼロのところから飛行機で4000mのところまで来てしまったので、急に動いたりするのは危ないとのことだった。その高山病を防ぐには初日はじっとし、また水を沢山飲んだほうが良いと書いてあった。ただし、まだお金も両替さえしておらず、宿にいても仕方がないので、ゆっくり歩きながら坂道を下って街に出た。

昼時ということもあり、ほとんどの両替所が閉まっていたが、なんとか一軒だけみつけて50$だけ両替し、郵便局で絵葉書を買った後、適当な食堂でサンドウィッチを食べた。朝早く眠くなったので、今度はバスで宿まで戻り昼寝をした。昼寝から目覚めると、もう夕食の時刻だった。夕食は宿代にも含まれていて、その日によって違ったメニュー、それも日本食が提供された。この日は酢豚だったが、数日前までパンとチーズを食べていたので、体がびっくりしないか心配だったが、どうやら無理せずに昼寝などもしたせいか、恐れていた高山病にはならずに、体の具合も良かった。
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by gonburimo | 2006-03-15 23:57 | South America 1998
2006年 03月 14日

サンチアゴ 五日目

サンチアゴで賑やかな場所といえば、毎日のように出歩いていた旧市街とは別に、地下鉄で数駅行った場所にあるプロビデンシア地区もそのひとつだった。ここは歴史的な建物が多いセントロとは対照的に、ビル群や比較的新しいショッピングモールなどが集まる新市街となっていた。ちょうど地下鉄の上を通るプロビデンシア通り沿いにそういったおしゃれな店が集まっていて、ユース周辺ともまた雰囲気はがらりと変わっていた。そんなプロビデンシア地区を歩いている人々を眺めているだけでもいい時間つぶしにはなるが、チリに来て感じたことは、チリ人女性の美しさだった。よく南米を旅行していて聞く言葉で中南米三大美女産地として3Cというのがある。とは国名の頭文字で、チリ(Chile)・コロンビア(Colombia)そしてコスタリカ(CostaRica)の三カ国を指している。それだけチリ人女性の美しさというか可愛らしさは目を見張るものがあった。ただ南米を旅していて思ったことだが、チリだけでなく、それまで通ってきたブラジルにしろ、アルゼンチンにしろ、女性の美しさといえば総じて高かった。それは外見だけでなく、彼らの親しみやすい性格にも一因があるようで、別に女性に限った話ではないが、男性も含めて南米ではいろいろと世話焼きの人が多く、温かい気持ちになることが多かった。それだけに、そんな時悔やまれるのは言葉の問題だった。もしスペイン語英語ドイツ語並に話すことができたら、親しみやすい彼らともっと仲良くなることができただろう。

この新市街に来たのは、別に美しい女性を見に来たわけではなかった。新市街のすぐ裏手には高級住宅街が広がっていたが、その中には各国の大使館がいくつか存在していて、日本大使館もあり、そこでは無料で日本の新聞が読めるとのことだったので、暇つぶしに来てみただけだった。噂どおりに日本の新聞は置いてあったが、それは数週間も前のもので、新しい新聞を読もうと思った目論見は見事に外れてしまったが、考えてみればホテルのような施設ならともかく、税金で賄われている公共機関にそんなサービスを求める方がおかしいといえた。大使館を出てまたプロビデンシア通りまで戻り、そこを渡って高級住宅街を抜けるとサンクリストバルの丘に上るロープウェイ乗り場に出た。これに乗っていくと、頂上にマリア像を抱えた展望台があって、サンチアゴの全景を見ることができたが、残念ながら排気ガスによるスモッグが激しくて、あまり視界は良くなかった。帰りは旧市街の方へ降りるケーブルカーに乗った。終点のすぐ近くにマポチョ川が流れていて、その川沿いを歩いて行くと中央市場に出た。こんな感じで、サンチアゴでの最終日をゆったりと過ごした。
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by gonburimo | 2006-03-14 22:23 | South America 1998
2006年 03月 13日

サンチアゴ 四日目

c0049109_23312066.jpgサンチアゴのユースは至極便利な場所にあった。一国の首都であるから、サンチアゴ自体はかなりの広さになるであろうが、旅行者が見てまわる場所は他の都市同様に旧市街周辺に集中していて、ユースからその旧市街までは充分歩いていける距離にあった。碁盤の目のようになっているので、ユースから東へ歩いていけば両替をしたアメックスのオフィスにあたり、そのまま進むと大統領府であるモネダ宮殿の前に出る。宮殿は独立広場という芝生のある広場に面しているので、そこに座って時間をつぶすのが日課になっていた。独立広場の横にはカレラホテルという超高級ホテルがあり、そのロビーは一見の価値がある豪華な造りで、用もないのに立ち寄ってトイレを借りるなどと重宝した。宮殿を通り過ぎると歩行者天国のアウマダ通りに出て、旧市街の中心で中央郵便局のあるアルマス広場はこの通りを北に進んだところにあり、その他にも市庁舎カテドラルが面していた。そしてもっと北へ行くと、台所と呼ばれる中央市場チリ・カトリックの総本山であるサント・ドミンゴ聖堂があり、おおよそこの周辺をまわるのに2時間もあれば充分といった感じだった。

この日、次の目的地であるボリビアまでの航空券を買うつもりである旅行代理店を訪ねた。チリからボリビアに入るにはサンチアゴからバスで北に向かい、アリカからボリビアに入る鉄道ルートがあったのだが、その鉄道が水害かなにかで動いていないとの情報があり、その代行のバスも運行されているのかどうかさえわからなかった。すると、ボリビアラパスまでは飛行機で行くしか選択肢はなかった。旅行代理店でラパスまでの値段を聞くと、だいたい200$前後で、その中でも一番安いものが朝早くに飛び立つランチリ航空のものだった。朝早いのは全く苦にならないので、2日後の便を予約した。これで次なる目的地であるボリビアまでの足も確保できたことになり、日程もここまでは順調にこなし、予算の方も思っていたよりは出費を少なくすることができた。

夕食はユースで取ることにした。朝食を提供するユースは多いが、夕食となるとその数は極端に少なくなる。自分が知っている限りでは、確かブリュッセルにあったユースは夕食もさることながら、館内にはバーも併設されていて、ベルギーらしくいろいろな種類のビールを飲むことができた。それ以外だと、ドイツにあるいくつかのユースで夕食をとった記憶はあるが、それがどこだったのか忘れてしまった。夕食後、そこに泊まっていた何人かの旅人と無駄話をしていると、これまででどこのユースが一番良かったかという話に突然なった。思えばこれまでにオフィシャル・アンオフィシャル問わず、かなりの数のユースに泊まってきたのは確かだったが、そう急に問われてもなかなか思いつかなかった。イギリスハワースにあった古い邸宅を改造したユースは、広い部屋に眩しいほどの陽光が入り込み、実に気持ちよかった。ドイツにあるユースはどこも清潔感にあふれていたが、その中でも古城を改造したニュルンベルクのユースは迷路のような館内が面白かった。ワシントンDCのユースもその立地と清潔さではなかなか居心地の良いユースのひとつと言えるだろう。というように、オフィシャルだけでもかなりの数になり、ただ単にドミトリーのある宿や、物価の安い地域などでお世話になった安宿も含めると、本当にこれまで数え切れないほどの宿を転々としてきたことが思い出された。結局、その時もどこか一番良かったという話よりは、ここはこんなところが良かったというような優劣の決められない話で終わってしまった。今思えば、サンチアゴのユースもなかなかの施設だった気がする。
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by gonburimo | 2006-03-13 23:31 | South America 1998
2006年 03月 12日

サンチアゴ 三日目

朝、2人をバスターミナルまで見送った。短い間だったが、時間では計れない濃い内容だっただけに、やはり少し寂しい気持ちがした。お互いに住所の交換はしたが、おそらく二度と会うことはないだろうという気がしたし、もし会ったとしてもチリでこんな体験をすることはないに違いなかった。2人を見送った後、ユースに戻ると日本人がテレビルームにいた。このユースに着いた時から感じていたことだが、サンチアゴのユースには思いのほか日本人の旅行者が多く滞在していて、それも時期的なせいか卒業旅行の人が多かった。その中の2人がこれからサンチアゴから100Kmほどの場所の海辺のリゾートであるビーニャ・デル・マルまで行くというので、一緒に行くことにした。バスターミナルからは5分ごとにビ-ニャ行が出ていて便利だった。

c0049109_22213854.jpg2時間ほどで到着し、さっそく有名なビーチを目指した。ガイドには、オンシーズン中は多くの観光客で賑わっていると書いてあったわりには、砂浜は閑散としていて寂しい。靴と靴下を脱いで、少し海に入ってみたが水温が低くて、とても泳げるような感じではなかった。ただ、人がいない方がかえってゆっくりできて、砂浜に寝転んで空を見上げていると、自分がチリにいることが信じられなくなってきた。地元に住んでいる家族連れなのか、小さな子供が水着に着替えて海に果敢にも飛び込んでいった。付き添いのお爺さんも一緒に入っていったのだが、平和な光景とは裏腹に、この寒さの中で大丈夫だろうかと余計な不安を覚えた。ビーニャにはなぜかモアイ像が置いてある考古学博物館があり、その前で写真を撮ったりしていたが、することもなくなったので、戻ろうとすると、反対側から高校生らしき女の子たちの団体がやってきたが、その中にいた東洋系の顔をした1人が突然我々に日本語で声をかけてきた。声を掛けられたこちらの方はびっくりしたが、少し話したところによると、彼女は国連の留学制度を利用して1年間チリに留学しているらしいのだが、まだチリに着いたのは1週間前だという。つまりこれから1年間の留学生活が始まるので、まだスペイン語もほとんど話せないようだった。それでもすでに数人のチリ人のクラスメートと友達になって一緒に行動していた。大学生ならまだしも、高校生でそれも何の縁もなく、これといった理由もなく選んだチリ1人で留学している彼女のことが自分にはなぜか眩しく見えた。無事に1年の留学を終えて帰国できるよう挨拶をして、またバスターミナルに戻った。

ビーニャのすぐ近くにはバルパライソという港町もあった。リゾート地のビーニャに較べると、バルパライソはよく言えば庶民的、悪く言えば治安が少し悪い雰囲気の街だった。その風情が最もよく表れているのが中心にあるプラット埠頭ソトマヨール広場で、船員を相手にした雑貨屋や土産物屋もいくつかあった。せっかく港に近いのだからと、市場に近い魚介料理専門のレストランに入った。食べたのはもちろんチリ名物の魚貝類がたっぷり入ったスープ、ソパ・デ・マリスコスだったが、熱々のスープはいろいろな具から出ただしがきいていて本当に美味しかった。胃が小さくなっていても、このスープだけは残すことなく平らげた。ユースに戻って、話し込んでいると時計の針は夜中の12時を指していた。ちょうど地球の反対側にある日本は昼間の時間だったので、自分が通っていた大学事務所に国際電話をかけた。実はこの日、正式に卒業できるかどうかが決定し発表される日だったのだが、問い合わせると無事に卒業できることがわかった。すかさず4月から働く会社の人事部にその旨を伝えるため、電話をかけなおしたが、遠く離れているわりには、それほど電話口でタイムラグを感じさせず、すんなりと報告は終わった。もしかしたら、これが国際電話だと向こうは気づいていたかもしれないが、よもや南米チリからかけてきているとは決して思っていなかっただろう。
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by gonburimo | 2006-03-12 22:21 | South America 1998
2006年 03月 11日

サンチアゴ 二日目

c0049109_2091087.jpg久々に暖かいベッドで眠ったので熟睡できた。3人で朝食をとった後、ロス・エロエス・バスターミナルに向かった。エルリッヒルディは元々友人の結婚式に出る予定だったが、その結婚式はメンドーサというアルゼンチンチリとの国境に近い街で行われる予定だった。そのメンドーサまでのバスが毎日出ていることを確認し、彼らは翌朝出発するバスを予約した。夕方にまた待ち合わせる約束をして、久しぶりにひとりで街を歩くことにした。サンチアゴの中心部は歩行者天国になっていて、人通りもなかなか激しい。少し歩いていくと、アルマス広場という場所に出た。ちょうどそこに面して中央郵便局があったので、建物前で売っていた絵葉書を多めに買って、ショッピングモール内にあったフードコートでそれを書くことにした。チリに入ってからは、車での移動ばかりで絵葉書を書くタイミングを逃していたせいか、書くことは山ほどあった。ただこの数日間に体験は決して忘れることのできない貴重なものだったので、書きたい内容はかなりの量になってしまい、何人かには便箋を使う羽目になった。

気づくと昼過ぎだったので、久しぶりにフードコート内にあったマクドナルドを食べることにした。なぜかセットを注文すると、特大のサンデーまでついてきたのには参ったが、それよりも驚いたのは、ビックマックセットを食べるのにひと苦労したことだった。ずっと少食というよりはゲルマン系の質素な食生活のおかげで、胃が小さくなってしまったようだ。結局、セットに含まれていたフライドポテトは全部食べることができなかった。そこからチリ国内で唯一の地下鉄に乗ってユースまで戻り、2人と合流してレンタカーを返しに、途中ガソリンスタンドで満タンにしてからレンタカー会社のオフィスに向かった。オフィスは郊外にあるホテル内にあった。カウンターでチェックをしてもらっていると、借りた時に発行されたクレジットの控えがないかと係員は尋ねてきたが、どうもそれを渡されたのかなくしてしまったのかわからないが、とにかくないとルディが答えると、困ってしまったようで、わざわざプエルト・モンのオフィスにまで確認し、20分ぐらい待たされてようやく手続きが完了した。

明日で彼らともお別れなので、最後は豪華にとレストランに入った。旅の途中で何度も質問されたことだったが、彼らは日本教育事情についていろいろと知りたがったが、それはあまりにもドイツのそれとは違いすぎて、彼らは最後までよく理解できないようで、こちらもかなり説明しづらかった。とはいえ、日本人とここまで話した機会は彼らにとっては初めての経験だったらしく、また一緒に旅してくれたことを何度も感謝されたが、逆にこちらの方こそ、素晴らしい体験をさせてくれて感謝したいぐらいだった。久しぶりに街中を歩いたので、思いのほか疲れていた。
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by gonburimo | 2006-03-11 20:09 | South America 1998
2006年 03月 01日

サンチアゴ

もう季節は3月に入っていた。日本でいえば9月にあたるのだろうが、朝晩の冷え込みは北上し続けても激しく、キャンプ生活もそろそろ終わりにしたいと感じるようになっていた。この日もひたすらに海沿いの道を進んでいった。途中に砂浜とは呼べないような海岸があると車を乗り入れて彼らは海に入っていくが、波は相変わらず高く、とてもこちらは泳ぐ気にもならなかった。オーストリアは内陸国、ドイツ北海に面していてもエルリッヒは最も南部に位置するバイエルン出身であり、彼らにとっては海で泳ぐという行為は、海に囲まれて育った日本人である僕にはわからない特別なことなのかもしれなかった。その後、クリコという街で本当に久しぶりの外食をした。ただ彼らふたりからはサンチアゴに行けば嫌でも外食ばかりになるのだから、ここで何も食べなくてもというようなことを言われた。それはごもっともな意見ではあるが、ここ数日は温かいものと行ったらインスタントスープぐらいだったので、妥協は許されなかった。これはゲルマン民族 だけにいえることかもしれないが、彼らは切り詰めるところは徹底的に切り詰める、そして使う時は思いっきり使うといったメリハリが徹底していた。いかにパンにチーズとサラミが彼らにとってはおにぎりみたいなものでも、それが3日3食続けば、さすがの日本人でも飽きると思うのだが、彼らにはそういった気持ちはないようだった。

また車で走り続けた。レンタカーは5日間しか借りていないので、翌日までにはサンチアゴに着かなければならないので、この日はある程度のところまで行っておかねばならない事情もあった。だが、またしても泊まる場所は決まっていないので、暗くなり始める前に適当な場所を探し始めたが、なかなか見つからなかった。というのも、サンチアゴに近づくにつれて、自然に囲まれた中を走るというようなことはなくなり、小さな集落と集落の間を通っていくという感じになり、そして車の往来も激しくなり始めていたので、側道で野宿をするというわけにもいかなかった。では小さな街とかでどこか安宿でも探せばよいものだが、あくまで彼らはテント生活にこだわるのであり、宿泊代などとんでもないといった雰囲気だった。結局、探しているうちにすっかり暗くなってしまい、ついに道も片側2車線の国道に入ってしまい、それこそ野宿どころではなくなってしまったが、しばらくすると標識が出ていた。そこにはサンチアゴまで70Kmと記されてあった。時刻はすでに9時をまわっていたが、当てもなく走っているよりはいっそのことサンチアゴに行ってしまった方が良いのではと提案した。ただし、サンチアゴに入ったらそれこそどこか宿に泊まらなければならないので、車を停めてユースホステルに電話してみた。運良く英語が話せる人が出て、レセプションは24時間開いていて、駐車場もあるとのことだった。これでテント生活ともおさらばだと喜びがわいてきた。
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ついにサンチアゴまでやってきた。それまで通ってきたところに較べると、やはり都会だった。ユースの場所はすぐに見つかった。サンチアゴのユースはドイツのそれと同じような造りのモダンな内装で、1階のコモンルームではCNN が流れていて、そこは世界各国から集まる旅人がリラックスしているいつものユースの雰囲気だった。前日まで続いていた静寂の中で眠るという贅沢はもうそこにはなく、あれほどまでテント生活から脱出したいと思っていたのに、いざそれが終わってしまうと名残惜しい感傷的な気分になった。本当に自分は天邪鬼だなと思った。
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by gonburimo | 2006-03-01 23:20 | South America 1998
2006年 02月 28日

コンセプシオン

c0049109_2224215.jpg寒かった。そのせいで一度目覚めたが、時計を見るとまだ3時だったので強引にまた眠った。ようやく朝になり、国立公園をあとにした。この日は進路を少し西にとり、車は海を目指して、海外線を北上するルートをとった。見えてきた海は紛れもなく太平洋だった。ただし我々日本人にとって太平洋とは南の方角に広がっているものだが、ちょうど地球の反対側のチリでのそれは北西に向かって広がっていて不思議な気がした。海はかなり波が高くとても泳げるような感じではなかったが、それでもルディは強引に海の中に入っていった。まさに死をも恐れないような凄まじい勢いで海に飛び込んでいったが、しばらくすると、さすがに疲れたのか車に戻ってきた。

特に目指す目的地もあるわけではないので、ひたすらに北上するしかないのだが、さすがに時間も夕方になってくると、どこか泊まる場所を見つけなければならない。ロンリープラネットにも掲載されていないような小さな街が続いていたので情報も全くなかった。しまいには運転しているルディと道案内をしているエルリッヒが喧嘩までし出して、車内は不穏な空気に包まれたりもした。仕方なくある港町で、3人の中では一番スペイン語の単語が操れる自分が適当な人を捕まえて、この辺にキャンプ場がないかと尋ねてみるが、返ってくる返事はどれも頼りなげな情報ばかりで、野宿の可能性が現実を帯びてきた。気が治まらないルディはもう運転しないと子供のようなことを言うので、レンタカーを借りて初めてエルリッヒがハンドルを握った。その運転は性格を反映するように、実に慎重な運転で、後部座席に乗っているこちらも安心して乗ることができた。

海岸線の道から少し内陸の道へ方向転換した。海より森の方が、キャンプ場があるのではという勝手な勘からだったが、これが見事に的中してキャンプ場の看板がしばらく走ると現れたので驚いた。そのキャンプ場は家族経営のような小さなもので、我々以外には泊まっている人はいないようだった。事務所兼住居のような所から女性が出てきて、僕が話す赤子以下のスペイン語に耳を傾けてくれた。本来ならこの得体の知れない外国人を警戒しそうなものだが、彼女はそんな素振りも見せずに値段や設備についてゆっくりと教えてくれた。野宿だけは避けることができたので、ふたりもいつの間にか機嫌が良くなっている。この日も結局食堂には入れなかったが、その代わりに昼間スーパーでスープの素を買っておいた。お湯を沸かしただけだが、暖かいものがあるのとないのでは贅沢度が違った。この日は火もつけることができ、暖を取りながら3人で遅くまで話した。
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by gonburimo | 2006-02-28 22:14 | South America 1998
2006年 02月 27日

プーコン

寒さで目が覚めた。寝袋だけではとても寝ていられないほど空気がひんやりとしていた。簡単に朝食を済ませ、さっそく出発した。相変わらず運転するのはルディだったが、性格を現すように運転は荒かった。一緒に行動して数日、だんだんと彼らの関係がわかるようになってきた。運転同様に気性が荒いオーストリア人ルディは水道管などの修理工で、娘がひとりいるようだったが、離婚してしまい、今では奥さんが育てているので時々しか会わせてもらえないと嘆いていた。一方、眼鏡をかけて見た目にもおっとりとしたドイツ人エルリッヒミュンヘンで自転車配達便の会社を経営していた。ただ時々は自分でも自転車に乗って荷物を届けているというから、本当に個人経営の会社のようだった。そして彼は独身だった。

そんな彼らふたりの関係は小学校の幼なじみという真柄だった。日本ドイツでは教育制度 も違うので、小学校というのは語弊があるかもしれない。特にドイツで最も保守的なバイエルン州教育制度 は、小さな頃から自らが進むべく道を確定し、それに合った専門の学校にそれぞれ進んでいくという形を取っていて、最終学歴の異なる彼らが一緒に過ごした時期は本当に幼い頃だと思われた。ところで、オーストリア人であるルディがなぜドイツ人のエルリッヒと小さな頃同じ学校で学んでいたのか気になったが、彼らの説明によると、国境近くではたとえオーストリアの国籍を持っていても、越境してドイツの学校に通うことがよくあるのだという。それは同じ言語、また元を辿れば同じ民族というこの二国間のみで通用するシステムなのかもしれないが、市町村を跨いで学校に通うことさえ難しい日本と比べると面白いシステムに聞こえた。ともかく幼なじみの彼らがわざわざ休みを取ってアルゼンチンまで来たのは、どうやらその学校で一緒だった彼ら共通の友人がアルゼンチン人の女性と結婚して、アルゼンチンで開かれるその式に出席するためだった。それにしても、結婚式に参加するというだけで2週間以上もの休暇が貰える彼らが羨ましかった。

c0049109_22125545.jpgこの日は、基本的に移動はせずに湖水地方内を周遊する計画だった。その中でも火山に近いリゾート地であるプーコンという街に寄った。ちょうどフェスティバルが行われるようで街中は交通規制が行われるほどの盛況振りだった。観光案内所で情報を仕入れた後、車でビジャリカ火山 の麓まで行き、そこからは道なき道を進んでいくと、ちょうど五合目ぐらいのところまで行くことができた。ビジャリカ火山 の雄大な姿もさることながら、それを背にして望むプーコンの街とその奥にある湖と雪山群に息をのんだ。その後、車を走らせて国立公園内にあるキャンプ場に泊まることにした。エルリッヒルディは周辺をトレッキングしてくると言って出かけていったが、自分は湖畔で寝そべって本を読んで過ごした。日差しが暑く、体が火照ってくると水の中に入り、また本を読む。その繰り返しをしている内に日が暮れだした。この日の夜も冷え込んできたが、残念ながら火をつけることはできなかった。彼らと旅していて困ったことがあるとすれば食事だった。彼らには3食続けてのパンにハムやチーズといった冷えた食事でも全く苦にならないようだった。しかし、自分はそろそろ暖かい物が食べたくなっていたので、なんとか次の日はどこかの食堂に入ってくれるようお願いして眠りについた。
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by gonburimo | 2006-02-27 22:07 | South America 1998
2006年 02月 26日

パンギプジ

c0049109_23562811.jpg朝から小雨が降っていた。しかし夜にはわからなかった湖の全体像が少なからず見えた。どうやらジャンキウエ湖という名で、晴れていれば反対側にオソルノ山が見えるはずだった。朝食はパン・サラミ・チーズというゲルマン民族にとってはこれ以上望むべくもない朝食メニューであったが、日本人には寂しかった。そんな中を車は湖に沿って走り出し、ペトロウエの滝を目指した。大きな看板もないので見落としがちな入口だったが、駐車場から森の中を歩いていくと、落差は低いがなかなか雄大な光景があらわれた。朝早い時間のためか、観光客は数人で静かさが贅沢に感じられた。先を目指して車を走らせていると、ありがたいことに空が晴れてきた。ようやくチリ富士とよばれるオソルノ山を拝むことができたが、その名の通り、頂には万年雪を抱えていて、富士山のようだった。

c0049109_23564272.jpg昼頃にロス・ラゴスという小さな村に着いた。ここで今後の食料を買い足そうということになったが、村の規模同様に小さなスーパーはシエスタに入る直前で、あやうく昼食を買いそびれるところだった。無事に調達を終えると、国立公園内にあるリニフエ湖で昼食を取ろうということになった。このリニエフ湖が本当に美しい場所で、青い空、緑の湖、そして遠くに雪を頂いた山々があって、水温は低かったものの、水着に着替えて泳いでいると、最高に気持ちが良かった。チリは南北に伸びる長細い地形をしているが、首都のサンチアゴを境にして北側は砂漠地帯、そして南側は湖水地帯が広がっていることで有名だったが、日本のガイドブックに詳しく載っているのは北側ばかりで、南側についてはほとんど掲載されていなかった。それもそのはずで、この周辺は車でなければ訪れることができないような場所が多く、海外を車で周遊するという習慣があまりない日本人には紹介されることがないのも当然といえた。しかし、一緒に旅しているのは旅のスペシャリストであるドイツ人である。昨日まで感じていた不安はすっかり吹き飛んで、彼らと出会ったのを幸運と思わずにいられなかった。

湖での時間を堪能した後、また別の場所にある湖を目指した。ロンリープラネットのすごいところは、あらゆる旅のスタイルにも適応する情報が掲載されていることであり、それは車で旅する人にとっても有用な情報が豊富で、この日はそこに掲載されていたあるパンギブジ湖畔にあった小さなキャンプ場で一夜を過ごすことにした。屋外にあったシャワーを浴びて戻ると、ルディが火をおこし始めていた。2月でも緯度が低いためか、夜になるとかなり冷え込むので、暖を取るにはありがたかった。コーヒーとまたしてもパンとサラミにチーズという組み合わせの夕食だったが、見上げれば満天の星空が広がっていて、これ以上の贅沢はないような錯覚に陥った。いやそれは錯覚ではなく、今思えば間違いなく贅沢な時間だった。
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by gonburimo | 2006-02-26 23:31 | South America 1998