]]>ラパスhttp://gonburimo.exblog.jp/3662045/2006-03-15T23:57:59+09:002006-03-15T23:57:59+09:002006-03-15T23:57:59+09:00gonburimoSouth America 1998朝5時前にはユースを出たが、まだ辺りは真っ暗で少し緊張しながら空港行バスがでる大通りまで歩いた。珍しく定刻どおりにバスが来て、1時間もしないうちにアルトゥール・メリノ・ベニテス国際空港という長い名前の空港に着いたが、その時でもまだ空は暗いままだった。建物自体は小さかったが、造りはなかなかモダンで少し驚いた。出発掲示板を覗くと、当然だが南米や北中米の都市へのフライトがほとんどながら、中にはヨーロッパへの直行便も数便出ているようだったが、日本に乗り入れていない航空会社が多く、それを見ているだけで楽しめた。簡単な出国審査を済ませると、搭乗ゲートの前には予想よりは大きめの飛行機が停まっていた。このランチリ航空のラパス行は途中にチリ北部のイキケとアリカに寄りながら向かう便で、そのため値段が直行便よりは多少安かった。飛び立つ時刻になって、ようやく空が明け始めてきた。
地図で見ればわかるようにサンチアゴとイキケはだいぶ離れているが、イキケとアリカは300キロほどしか離れていないので、イキケを飛び立つと水平飛行に入るかは入らない前にアリカに着陸を開始した。これは飛行機自体が小さいからできるのであって、ジャンボ機では距離が短すぎると飛べないとどこかで聞いたことがある。アリカからラパスまでのルートはちょうどアンデス山脈を横切る形になり、幸いにも雲もなく晴れ渡ってくれたせいか窓から雄大な景色を眺めることができた。そんな景色を楽しんでいると、いよいよラパスに着陸するとのアナウンスがあった。ラパスは標高3650mにある世界最高所の首都だが、その空港はさらに高い4000mの所にあった。チリと較べると国力の差なのか空港もどこか田舎の雰囲気を残していた。街まではタクシーで行くこととなったが、かなりの下り坂をそれもおばさんが運転する古い車で行くのはなかなかスリリングな体験だった。
このラパスで泊まろうと思っていたのはトキゲストハウスという有名な日本人宿だった。街の中心から少し坂道を上がった場所にあるそれは防犯対策の為か入口もわかりづらくひっそりとしていた。階段を上がると、オーナーの鳥海さんが迎えてくれたが、噂どおり宿の説明をとても丁寧な言葉使いでしてくれるのだが、その間1回たりとも笑わず、さらに渡された一枚の紙にはこの宿での決まりごとというかルールが細かな字でびっしりと書かれていたので緊張した。数台のベッドが並んだ部屋に入ると、すでに何人かの先客がいたが、誰もが快く挨拶をしてくれて雰囲気は良さそうだったので、ここに泊まることにした。ラパスに入って一番恐れていたのは高山病だった。本来なら時間をかけて徐々に高度を上げてくるはずが、ほぼ海抜ゼロのところから飛行機で4000mのところまで来てしまったので、急に動いたりするのは危ないとのことだった。その高山病を防ぐには初日はじっとし、また水を沢山飲んだほうが良いと書いてあった。ただし、まだお金も両替さえしておらず、宿にいても仕方がないので、ゆっくり歩きながら坂道を下って街に出た。
昼時ということもあり、ほとんどの両替所が閉まっていたが、なんとか一軒だけみつけて50$だけ両替し、郵便局で絵葉書を買った後、適当な食堂でサンドウィッチを食べた。朝早く眠くなったので、今度はバスで宿まで戻り昼寝をした。昼寝から目覚めると、もう夕食の時刻だった。夕食は宿代にも含まれていて、その日によって違ったメニュー、それも日本食が提供された。この日は酢豚だったが、数日前までパンとチーズを食べていたので、体がびっくりしないか心配だったが、どうやら無理せずに昼寝などもしたせいか、恐れていた高山病にはならずに、体の具合も良かった。
]]>サンチアゴ 五日目http://gonburimo.exblog.jp/3656926/2006-03-14T22:23:36+09:002006-03-14T22:23:36+09:002006-03-14T22:23:36+09:00gonburimoSouth America 1998
この新市街に来たのは、別に美しい女性を見に来たわけではなかった。新市街のすぐ裏手には高級住宅街が広がっていたが、その中には各国の大使館がいくつか存在していて、日本大使館もあり、そこでは無料で日本の新聞が読めるとのことだったので、暇つぶしに来てみただけだった。噂どおりに日本の新聞は置いてあったが、それは数週間も前のもので、新しい新聞を読もうと思った目論見は見事に外れてしまったが、考えてみればホテルのような施設ならともかく、税金で賄われている公共機関にそんなサービスを求める方がおかしいといえた。大使館を出てまたプロビデンシア通りまで戻り、そこを渡って高級住宅街を抜けるとサンクリストバルの丘に上るロープウェイ乗り場に出た。これに乗っていくと、頂上にマリア像を抱えた展望台があって、サンチアゴの全景を見ることができたが、残念ながら排気ガスによるスモッグが激しくて、あまり視界は良くなかった。帰りは旧市街の方へ降りるケーブルカーに乗った。終点のすぐ近くにマポチョ川が流れていて、その川沿いを歩いて行くと中央市場に出た。こんな感じで、サンチアゴでの最終日をゆったりと過ごした。
]]>サンチアゴ 四日目http://gonburimo.exblog.jp/3652789/2006-03-13T23:31:56+09:002006-03-13T23:31:56+09:002006-03-13T23:31:56+09:00gonburimoSouth America 1998サンチアゴのユースは至極便利な場所にあった。一国の首都であるから、サンチアゴ自体はかなりの広さになるであろうが、旅行者が見てまわる場所は他の都市同様に旧市街周辺に集中していて、ユースからその旧市街までは充分歩いていける距離にあった。碁盤の目のようになっているので、ユースから東へ歩いていけば両替をしたアメックスのオフィスにあたり、そのまま進むと大統領府であるモネダ宮殿の前に出る。宮殿は独立広場という芝生のある広場に面しているので、そこに座って時間をつぶすのが日課になっていた。独立広場の横にはカレラホテルという超高級ホテルがあり、そのロビーは一見の価値がある豪華な造りで、用もないのに立ち寄ってトイレを借りるなどと重宝した。宮殿を通り過ぎると歩行者天国のアウマダ通りに出て、旧市街の中心で中央郵便局のあるアルマス広場はこの通りを北に進んだところにあり、その他にも市庁舎やカテドラルが面していた。そしてもっと北へ行くと、台所と呼ばれる中央市場とチリ・カトリックの総本山であるサント・ドミンゴ聖堂があり、おおよそこの周辺をまわるのに2時間もあれば充分といった感じだった。
夕食はユースで取ることにした。朝食を提供するユースは多いが、夕食となるとその数は極端に少なくなる。自分が知っている限りでは、確かブリュッセルにあったユースは夕食もさることながら、館内にはバーも併設されていて、ベルギーらしくいろいろな種類のビールを飲むことができた。それ以外だと、ドイツにあるいくつかのユースで夕食をとった記憶はあるが、それがどこだったのか忘れてしまった。夕食後、そこに泊まっていた何人かの旅人と無駄話をしていると、これまででどこのユースが一番良かったかという話に突然なった。思えばこれまでにオフィシャル・アンオフィシャル問わず、かなりの数のユースに泊まってきたのは確かだったが、そう急に問われてもなかなか思いつかなかった。イギリスのハワースにあった古い邸宅を改造したユースは、広い部屋に眩しいほどの陽光が入り込み、実に気持ちよかった。ドイツにあるユースはどこも清潔感にあふれていたが、その中でも古城を改造したニュルンベルクのユースは迷路のような館内が面白かった。ワシントンDCのユースもその立地と清潔さではなかなか居心地の良いユースのひとつと言えるだろう。というように、オフィシャルだけでもかなりの数になり、ただ単にドミトリーのある宿や、物価の安い地域などでお世話になった安宿も含めると、本当にこれまで数え切れないほどの宿を転々としてきたことが思い出された。結局、その時もどこか一番良かったという話よりは、ここはこんなところが良かったというような優劣の決められない話で終わってしまった。今思えば、サンチアゴのユースもなかなかの施設だった気がする。
]]>サンチアゴ 三日目http://gonburimo.exblog.jp/3647468/2006-03-12T22:21:51+09:002006-03-12T22:21:51+09:002006-03-12T22:21:51+09:00gonburimoSouth America 1998
2時間ほどで到着し、さっそく有名なビーチを目指した。ガイドには、オンシーズン中は多くの観光客で賑わっていると書いてあったわりには、砂浜は閑散としていて寂しい。靴と靴下を脱いで、少し海に入ってみたが水温が低くて、とても泳げるような感じではなかった。ただ、人がいない方がかえってゆっくりできて、砂浜に寝転んで空を見上げていると、自分がチリにいることが信じられなくなってきた。地元に住んでいる家族連れなのか、小さな子供が水着に着替えて海に果敢にも飛び込んでいった。付き添いのお爺さんも一緒に入っていったのだが、平和な光景とは裏腹に、この寒さの中で大丈夫だろうかと余計な不安を覚えた。ビーニャにはなぜかモアイ像が置いてある考古学博物館があり、その前で写真を撮ったりしていたが、することもなくなったので、戻ろうとすると、反対側から高校生らしき女の子たちの団体がやってきたが、その中にいた東洋系の顔をした1人が突然我々に日本語で声をかけてきた。声を掛けられたこちらの方はびっくりしたが、少し話したところによると、彼女は国連の留学制度を利用して1年間チリに留学しているらしいのだが、まだチリに着いたのは1週間前だという。つまりこれから1年間の留学生活が始まるので、まだスペイン語もほとんど話せないようだった。それでもすでに数人のチリ人のクラスメートと友達になって一緒に行動していた。大学生ならまだしも、高校生でそれも何の縁もなく、これといった理由もなく選んだチリに1人で留学している彼女のことが自分にはなぜか眩しく見えた。無事に1年の留学を終えて帰国できるよう挨拶をして、またバスターミナルに戻った。
ビーニャのすぐ近くにはバルパライソという港町もあった。リゾート地のビーニャに較べると、バルパライソはよく言えば庶民的、悪く言えば治安が少し悪い雰囲気の街だった。その風情が最もよく表れているのが中心にあるプラット埠頭とソトマヨール広場で、船員を相手にした雑貨屋や土産物屋もいくつかあった。せっかく港に近いのだからと、市場に近い魚介料理専門のレストランに入った。食べたのはもちろんチリ名物の魚貝類がたっぷり入ったスープ、ソパ・デ・マリスコスだったが、熱々のスープはいろいろな具から出ただしがきいていて本当に美味しかった。胃が小さくなっていても、このスープだけは残すことなく平らげた。ユースに戻って、話し込んでいると時計の針は夜中の12時を指していた。ちょうど地球の反対側にある日本は昼間の時間だったので、自分が通っていた大学事務所に国際電話をかけた。実はこの日、正式に卒業できるかどうかが決定し発表される日だったのだが、問い合わせると無事に卒業できることがわかった。すかさず4月から働く会社の人事部にその旨を伝えるため、電話をかけなおしたが、遠く離れているわりには、それほど電話口でタイムラグを感じさせず、すんなりと報告は終わった。もしかしたら、これが国際電話だと向こうは気づいていたかもしれないが、よもや南米のチリからかけてきているとは決して思っていなかっただろう。
]]>サンチアゴ 二日目http://gonburimo.exblog.jp/3642245/2006-03-11T20:09:38+09:002006-03-11T20:09:38+09:002006-03-11T20:09:38+09:00gonburimoSouth America 1998久々に暖かいベッドで眠ったので熟睡できた。3人で朝食をとった後、ロス・エロエス・バスターミナルに向かった。エルリッヒとルディは元々友人の結婚式に出る予定だったが、その結婚式はメンドーサというアルゼンチンとチリとの国境に近い街で行われる予定だった。そのメンドーサまでのバスが毎日出ていることを確認し、彼らは翌朝出発するバスを予約した。夕方にまた待ち合わせる約束をして、久しぶりにひとりで街を歩くことにした。サンチアゴの中心部は歩行者天国になっていて、人通りもなかなか激しい。少し歩いていくと、アルマス広場という場所に出た。ちょうどそこに面して中央郵便局があったので、建物前で売っていた絵葉書を多めに買って、ショッピングモール内にあったフードコートでそれを書くことにした。チリに入ってからは、車での移動ばかりで絵葉書を書くタイミングを逃していたせいか、書くことは山ほどあった。ただこの数日間に体験は決して忘れることのできない貴重なものだったので、書きたい内容はかなりの量になってしまい、何人かには便箋を使う羽目になった。
気づくと昼過ぎだったので、久しぶりにフードコート内にあったマクドナルドを食べることにした。なぜかセットを注文すると、特大のサンデーまでついてきたのには参ったが、それよりも驚いたのは、ビックマックセットを食べるのにひと苦労したことだった。ずっと少食というよりはゲルマン系の質素な食生活のおかげで、胃が小さくなってしまったようだ。結局、セットに含まれていたフライドポテトは全部食べることができなかった。そこからチリ国内で唯一の地下鉄に乗ってユースまで戻り、2人と合流してレンタカーを返しに、途中ガソリンスタンドで満タンにしてからレンタカー会社のオフィスに向かった。オフィスは郊外にあるホテル内にあった。カウンターでチェックをしてもらっていると、借りた時に発行されたクレジットの控えがないかと係員は尋ねてきたが、どうもそれを渡されたのかなくしてしまったのかわからないが、とにかくないとルディが答えると、困ってしまったようで、わざわざプエルト・モンのオフィスにまで確認し、20分ぐらい待たされてようやく手続きが完了した。
明日で彼らともお別れなので、最後は豪華にとレストランに入った。旅の途中で何度も質問されたことだったが、彼らは日本の教育事情についていろいろと知りたがったが、それはあまりにもドイツのそれとは違いすぎて、彼らは最後までよく理解できないようで、こちらもかなり説明しづらかった。とはいえ、日本人とここまで話した機会は彼らにとっては初めての経験だったらしく、また一緒に旅してくれたことを何度も感謝されたが、逆にこちらの方こそ、素晴らしい体験をさせてくれて感謝したいぐらいだった。久しぶりに街中を歩いたので、思いのほか疲れていた。
]]>サンチアゴhttp://gonburimo.exblog.jp/3602613/2006-03-01T23:20:00+09:002006-03-02T23:26:19+09:002006-03-02T23:26:19+09:00gonburimoSouth America 1998
また車で走り続けた。レンタカーは5日間しか借りていないので、翌日までにはサンチアゴに着かなければならないので、この日はある程度のところまで行っておかねばならない事情もあった。だが、またしても泊まる場所は決まっていないので、暗くなり始める前に適当な場所を探し始めたが、なかなか見つからなかった。というのも、サンチアゴに近づくにつれて、自然に囲まれた中を走るというようなことはなくなり、小さな集落と集落の間を通っていくという感じになり、そして車の往来も激しくなり始めていたので、側道で野宿をするというわけにもいかなかった。では小さな街とかでどこか安宿でも探せばよいものだが、あくまで彼らはテント生活にこだわるのであり、宿泊代などとんでもないといった雰囲気だった。結局、探しているうちにすっかり暗くなってしまい、ついに道も片側2車線の国道に入ってしまい、それこそ野宿どころではなくなってしまったが、しばらくすると標識が出ていた。そこにはサンチアゴまで70Kmと記されてあった。時刻はすでに9時をまわっていたが、当てもなく走っているよりはいっそのことサンチアゴに行ってしまった方が良いのではと提案した。ただし、サンチアゴに入ったらそれこそどこか宿に泊まらなければならないので、車を停めてユースホステルに電話してみた。運良く英語が話せる人が出て、レセプションは24時間開いていて、駐車場もあるとのことだった。これでテント生活ともおさらばだと喜びがわいてきた。
ついにサンチアゴまでやってきた。それまで通ってきたところに較べると、やはり都会だった。ユースの場所はすぐに見つかった。サンチアゴのユースはドイツのそれと同じような造りのモダンな内装で、1階のコモンルームではCNN が流れていて、そこは世界各国から集まる旅人がリラックスしているいつものユースの雰囲気だった。前日まで続いていた静寂の中で眠るという贅沢はもうそこにはなく、あれほどまでテント生活から脱出したいと思っていたのに、いざそれが終わってしまうと名残惜しい感傷的な気分になった。本当に自分は天邪鬼だなと思った。
]]>コンセプシオンhttp://gonburimo.exblog.jp/3597649/2006-02-28T22:14:00+09:002006-03-01T22:25:57+09:002006-03-01T22:25:57+09:00gonburimoSouth America 1998寒かった。そのせいで一度目覚めたが、時計を見るとまだ3時だったので強引にまた眠った。ようやく朝になり、国立公園をあとにした。この日は進路を少し西にとり、車は海を目指して、海外線を北上するルートをとった。見えてきた海は紛れもなく太平洋だった。ただし我々日本人にとって太平洋とは南の方角に広がっているものだが、ちょうど地球の反対側のチリでのそれは北西に向かって広がっていて不思議な気がした。海はかなり波が高くとても泳げるような感じではなかったが、それでもルディは強引に海の中に入っていった。まさに死をも恐れないような凄まじい勢いで海に飛び込んでいったが、しばらくすると、さすがに疲れたのか車に戻ってきた。