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2006年 03月 16日
ラパスは本当に坂が多い街だった。盆地の形をしているから当たり前だが、宿から街の中心まで行くのもかなりの坂道を下っていく感じだった。その中心にある旅行会社でプーノ行のバスチケットを購入した。最後の国であるペルーにはバスで入ることにした。その後、メインストリートの7月16日通り を歩いていくと、サンフランシスコ寺院 の前に出た。ここから伸びる坂道が有名なサガルナガ通り で、まさにラパスの下町といった感じで、数え切れないほどの露店が並び、そこではインディヘナ の女性があらゆる物を売っていた。ボリビアは南米の中でも特にインディヘナ や白人との混血であるメスティソ が人口の多数を占めている国で、街を歩いていても本当にそれが実感でき、イタリア系やスペイン系が多いアルゼンチンやチリから来たので、それが余計に目立った。 一度、宿に戻るとそこに泊まっていた日本人に動物園 に行かないかと誘われたので、付いていくことにした。その前にサンミゲール地区 という高級住宅街に寄っていった。朝に歩いたセントロに較べると街並みも整然としていて、同じ国とは思えないほどお洒落な雰囲気が漂っている。なぜここが高級住宅地かというと、ラパス内で一番標高が低い場所であるからだった。普通、高級住宅地とは中心地から離れた高台の上にあったりするものだが、標高が3000mを越すこのラパスでは逆に低い場所こそが高級な地域となり金持ちが住んでいるのだった。その後、タクシーで動物園 に向かった。入場料が3ボリビアーノだから100円もしなかったが、ここに来たのはアンデス だけに生息する珍しいリャマ とアルパカ が飼育されていたからだった。良質なセーターの毛としても使われるほどだが、このラクダ科の動物はほぼ放し飼いのような状態で飼育されていて、現地の人は持ってきた餌を与えたりしていた。そして、やはりアンデス にはかかせないコンドル も飼育されていて、さすがに檻には入れられていたものの、土地があり余っているせいか檻は必要以上に大きく、しばらく見ているとコンドル が羽を広げて飛び立つところも見ることができた。その他にもピューマ など日本ではあまりお目にかかれない動物がけっこういて、値段からいえばかなりお得な動物園だった。帰りに月の谷 という場所に寄りながら宿に戻った。南米にはなぜかこのような日本人が経営する日本人宿 が多かった。サンパウロやリマの他にもチリや中米などにもあるようだった。中南米以外にも日本人の溜まり場と化している宿はいくつかあったが、経営しているのは現地人ということがほとんどだった。この日も夕食に日本食が出て、一緒に泊まっていた人たちと食べていると合宿所にいるようだった。 2006年 03月 15日
朝5時前にはユースを出たが、まだ辺りは真っ暗で少し緊張しながら空港行バスがでる大通りまで歩いた。珍しく定刻どおりにバスが来て、1時間もしないうちにアルトゥール・メリノ・ベニテス国際空港という長い名前の空港に着いたが、その時でもまだ空は暗いままだった。建物自体は小さかったが、造りはなかなかモダンで少し驚いた。出発掲示板を覗くと、当然だが南米や北中米の都市へのフライトがほとんどながら、中にはヨーロッパへの直行便も数便出ているようだったが、日本に乗り入れていない航空会社が多く、それを見ているだけで楽しめた。簡単な出国審査を済ませると、搭乗ゲートの前には予想よりは大きめの飛行機が停まっていた。このランチリ航空のラパス行は途中にチリ北部のイキケとアリカに寄りながら向かう便で、そのため値段が直行便よりは多少安かった。飛び立つ時刻になって、ようやく空が明け始めてきた。 地図で見ればわかるようにサンチアゴとイキケはだいぶ離れているが、イキケとアリカは300キロほどしか離れていないので、イキケを飛び立つと水平飛行に入るかは入らない前にアリカに着陸を開始した。これは飛行機自体が小さいからできるのであって、ジャンボ機では距離が短すぎると飛べないとどこかで聞いたことがある。アリカからラパスまでのルートはちょうどアンデス山脈を横切る形になり、幸いにも雲もなく晴れ渡ってくれたせいか窓から雄大な景色を眺めることができた。そんな景色を楽しんでいると、いよいよラパスに着陸するとのアナウンスがあった。ラパスは標高3650mにある世界最高所の首都だが、その空港はさらに高い4000mの所にあった。チリと較べると国力の差なのか空港もどこか田舎の雰囲気を残していた。街まではタクシーで行くこととなったが、かなりの下り坂をそれもおばさんが運転する古い車で行くのはなかなかスリリングな体験だった。このラパスで泊まろうと思っていたのはトキゲストハウスという有名な日本人宿だった。街の中心から少し坂道を上がった場所にあるそれは防犯対策の為か入口もわかりづらくひっそりとしていた。階段を上がると、オーナーの鳥海さんが迎えてくれたが、噂どおり宿の説明をとても丁寧な言葉使いでしてくれるのだが、その間1回たりとも笑わず、さらに渡された一枚の紙にはこの宿での決まりごとというかルールが細かな字でびっしりと書かれていたので緊張した。数台のベッドが並んだ部屋に入ると、すでに何人かの先客がいたが、誰もが快く挨拶をしてくれて雰囲気は良さそうだったので、ここに泊まることにした。ラパスに入って一番恐れていたのは高山病だった。本来なら時間をかけて徐々に高度を上げてくるはずが、ほぼ海抜ゼロのところから飛行機で4000mのところまで来てしまったので、急に動いたりするのは危ないとのことだった。その高山病を防ぐには初日はじっとし、また水を沢山飲んだほうが良いと書いてあった。ただし、まだお金も両替さえしておらず、宿にいても仕方がないので、ゆっくり歩きながら坂道を下って街に出た。 昼時ということもあり、ほとんどの両替所が閉まっていたが、なんとか一軒だけみつけて50$だけ両替し、郵便局で絵葉書を買った後、適当な食堂でサンドウィッチを食べた。朝早く眠くなったので、今度はバスで宿まで戻り昼寝をした。昼寝から目覚めると、もう夕食の時刻だった。夕食は宿代にも含まれていて、その日によって違ったメニュー、それも日本食が提供された。この日は酢豚だったが、数日前までパンとチーズを食べていたので、体がびっくりしないか心配だったが、どうやら無理せずに昼寝などもしたせいか、恐れていた高山病にはならずに、体の具合も良かった。 2006年 03月 14日
サンチアゴで賑やかな場所といえば、毎日のように出歩いていた旧市街とは別に、地下鉄で数駅行った場所にあるプロビデンシア地区もそのひとつだった。ここは歴史的な建物が多いセントロとは対照的に、ビル群や比較的新しいショッピングモールなどが集まる新市街となっていた。ちょうど地下鉄の上を通るプロビデンシア通り沿いにそういったおしゃれな店が集まっていて、ユース周辺ともまた雰囲気はがらりと変わっていた。そんなプロビデンシア地区を歩いている人々を眺めているだけでもいい時間つぶしにはなるが、チリに来て感じたことは、チリ人女性の美しさだった。よく南米を旅行していて聞く言葉で中南米三大美女産地として3Cというのがある。Cとは国名の頭文字で、チリ(Chile)・コロンビア(Colombia)そしてコスタリカ(CostaRica)の三カ国を指している。それだけチリ人女性の美しさというか可愛らしさは目を見張るものがあった。ただ南米を旅していて思ったことだが、チリだけでなく、それまで通ってきたブラジルにしろ、アルゼンチンにしろ、女性の美しさといえば総じて高かった。それは外見だけでなく、彼らの親しみやすい性格にも一因があるようで、別に女性に限った話ではないが、男性も含めて南米ではいろいろと世話焼きの人が多く、温かい気持ちになることが多かった。それだけに、そんな時悔やまれるのは言葉の問題だった。もしスペイン語が英語やドイツ語並に話すことができたら、親しみやすい彼らともっと仲良くなることができただろう。 この新市街に来たのは、別に美しい女性を見に来たわけではなかった。新市街のすぐ裏手には高級住宅街が広がっていたが、その中には各国の大使館がいくつか存在していて、日本大使館もあり、そこでは無料で日本の新聞が読めるとのことだったので、暇つぶしに来てみただけだった。噂どおりに日本の新聞は置いてあったが、それは数週間も前のもので、新しい新聞を読もうと思った目論見は見事に外れてしまったが、考えてみればホテルのような施設ならともかく、税金で賄われている公共機関にそんなサービスを求める方がおかしいといえた。大使館を出てまたプロビデンシア通りまで戻り、そこを渡って高級住宅街を抜けるとサンクリストバルの丘に上るロープウェイ乗り場に出た。これに乗っていくと、頂上にマリア像を抱えた展望台があって、サンチアゴの全景を見ることができたが、残念ながら排気ガスによるスモッグが激しくて、あまり視界は良くなかった。帰りは旧市街の方へ降りるケーブルカーに乗った。終点のすぐ近くにマポチョ川が流れていて、その川沿いを歩いて行くと中央市場に出た。こんな感じで、サンチアゴでの最終日をゆったりと過ごした。 2006年 03月 13日
サンチアゴのユースは至極便利な場所にあった。一国の首都であるから、サンチアゴ自体はかなりの広さになるであろうが、旅行者が見てまわる場所は他の都市同様に旧市街周辺に集中していて、ユースからその旧市街までは充分歩いていける距離にあった。碁盤の目のようになっているので、ユースから東へ歩いていけば両替をしたアメックスのオフィスにあたり、そのまま進むと大統領府であるモネダ宮殿の前に出る。宮殿は独立広場という芝生のある広場に面しているので、そこに座って時間をつぶすのが日課になっていた。独立広場の横にはカレラホテルという超高級ホテルがあり、そのロビーは一見の価値がある豪華な造りで、用もないのに立ち寄ってトイレを借りるなどと重宝した。宮殿を通り過ぎると歩行者天国のアウマダ通りに出て、旧市街の中心で中央郵便局のあるアルマス広場はこの通りを北に進んだところにあり、その他にも市庁舎やカテドラルが面していた。そしてもっと北へ行くと、台所と呼ばれる中央市場とチリ・カトリックの総本山であるサント・ドミンゴ聖堂があり、おおよそこの周辺をまわるのに2時間もあれば充分といった感じだった。この日、次の目的地であるボリビアまでの航空券を買うつもりである旅行代理店を訪ねた。チリからボリビアに入るにはサンチアゴからバスで北に向かい、アリカからボリビアに入る鉄道ルートがあったのだが、その鉄道が水害かなにかで動いていないとの情報があり、その代行のバスも運行されているのかどうかさえわからなかった。すると、ボリビアのラパスまでは飛行機で行くしか選択肢はなかった。旅行代理店でラパスまでの値段を聞くと、だいたい200$前後で、その中でも一番安いものが朝早くに飛び立つランチリ航空のものだった。朝早いのは全く苦にならないので、2日後の便を予約した。これで次なる目的地であるボリビアまでの足も確保できたことになり、日程もここまでは順調にこなし、予算の方も思っていたよりは出費を少なくすることができた。 夕食はユースで取ることにした。朝食を提供するユースは多いが、夕食となるとその数は極端に少なくなる。自分が知っている限りでは、確かブリュッセルにあったユースは夕食もさることながら、館内にはバーも併設されていて、ベルギーらしくいろいろな種類のビールを飲むことができた。それ以外だと、ドイツにあるいくつかのユースで夕食をとった記憶はあるが、それがどこだったのか忘れてしまった。夕食後、そこに泊まっていた何人かの旅人と無駄話をしていると、これまででどこのユースが一番良かったかという話に突然なった。思えばこれまでにオフィシャル・アンオフィシャル問わず、かなりの数のユースに泊まってきたのは確かだったが、そう急に問われてもなかなか思いつかなかった。イギリスのハワースにあった古い邸宅を改造したユースは、広い部屋に眩しいほどの陽光が入り込み、実に気持ちよかった。ドイツにあるユースはどこも清潔感にあふれていたが、その中でも古城を改造したニュルンベルクのユースは迷路のような館内が面白かった。ワシントンDCのユースもその立地と清潔さではなかなか居心地の良いユースのひとつと言えるだろう。というように、オフィシャルだけでもかなりの数になり、ただ単にドミトリーのある宿や、物価の安い地域などでお世話になった安宿も含めると、本当にこれまで数え切れないほどの宿を転々としてきたことが思い出された。結局、その時もどこか一番良かったという話よりは、ここはこんなところが良かったというような優劣の決められない話で終わってしまった。今思えば、サンチアゴのユースもなかなかの施設だった気がする。 2006年 03月 12日
朝、2人をバスターミナルまで見送った。短い間だったが、時間では計れない濃い内容だっただけに、やはり少し寂しい気持ちがした。お互いに住所の交換はしたが、おそらく二度と会うことはないだろうという気がしたし、もし会ったとしてもチリでこんな体験をすることはないに違いなかった。2人を見送った後、ユースに戻ると日本人がテレビルームにいた。このユースに着いた時から感じていたことだが、サンチアゴのユースには思いのほか日本人の旅行者が多く滞在していて、それも時期的なせいか卒業旅行の人が多かった。その中の2人がこれからサンチアゴから100Kmほどの場所の海辺のリゾートであるビーニャ・デル・マルまで行くというので、一緒に行くことにした。バスターミナルからは5分ごとにビ-ニャ行が出ていて便利だった。 2時間ほどで到着し、さっそく有名なビーチを目指した。ガイドには、オンシーズン中は多くの観光客で賑わっていると書いてあったわりには、砂浜は閑散としていて寂しい。靴と靴下を脱いで、少し海に入ってみたが水温が低くて、とても泳げるような感じではなかった。ただ、人がいない方がかえってゆっくりできて、砂浜に寝転んで空を見上げていると、自分がチリにいることが信じられなくなってきた。地元に住んでいる家族連れなのか、小さな子供が水着に着替えて海に果敢にも飛び込んでいった。付き添いのお爺さんも一緒に入っていったのだが、平和な光景とは裏腹に、この寒さの中で大丈夫だろうかと余計な不安を覚えた。ビーニャにはなぜかモアイ像が置いてある考古学博物館があり、その前で写真を撮ったりしていたが、することもなくなったので、戻ろうとすると、反対側から高校生らしき女の子たちの団体がやってきたが、その中にいた東洋系の顔をした1人が突然我々に日本語で声をかけてきた。声を掛けられたこちらの方はびっくりしたが、少し話したところによると、彼女は国連の留学制度を利用して1年間チリに留学しているらしいのだが、まだチリに着いたのは1週間前だという。つまりこれから1年間の留学生活が始まるので、まだスペイン語もほとんど話せないようだった。それでもすでに数人のチリ人のクラスメートと友達になって一緒に行動していた。大学生ならまだしも、高校生でそれも何の縁もなく、これといった理由もなく選んだチリに1人で留学している彼女のことが自分にはなぜか眩しく見えた。無事に1年の留学を終えて帰国できるよう挨拶をして、またバスターミナルに戻った。ビーニャのすぐ近くにはバルパライソという港町もあった。リゾート地のビーニャに較べると、バルパライソはよく言えば庶民的、悪く言えば治安が少し悪い雰囲気の街だった。その風情が最もよく表れているのが中心にあるプラット埠頭とソトマヨール広場で、船員を相手にした雑貨屋や土産物屋もいくつかあった。せっかく港に近いのだからと、市場に近い魚介料理専門のレストランに入った。食べたのはもちろんチリ名物の魚貝類がたっぷり入ったスープ、ソパ・デ・マリスコスだったが、熱々のスープはいろいろな具から出ただしがきいていて本当に美味しかった。胃が小さくなっていても、このスープだけは残すことなく平らげた。ユースに戻って、話し込んでいると時計の針は夜中の12時を指していた。ちょうど地球の反対側にある日本は昼間の時間だったので、自分が通っていた大学事務所に国際電話をかけた。実はこの日、正式に卒業できるかどうかが決定し発表される日だったのだが、問い合わせると無事に卒業できることがわかった。すかさず4月から働く会社の人事部にその旨を伝えるため、電話をかけなおしたが、遠く離れているわりには、それほど電話口でタイムラグを感じさせず、すんなりと報告は終わった。もしかしたら、これが国際電話だと向こうは気づいていたかもしれないが、よもや南米のチリからかけてきているとは決して思っていなかっただろう。 2006年 03月 11日
久々に暖かいベッドで眠ったので熟睡できた。3人で朝食をとった後、ロス・エロエス・バスターミナルに向かった。エルリッヒとルディは元々友人の結婚式に出る予定だったが、その結婚式はメンドーサというアルゼンチンとチリとの国境に近い街で行われる予定だった。そのメンドーサまでのバスが毎日出ていることを確認し、彼らは翌朝出発するバスを予約した。夕方にまた待ち合わせる約束をして、久しぶりにひとりで街を歩くことにした。サンチアゴの中心部は歩行者天国になっていて、人通りもなかなか激しい。少し歩いていくと、アルマス広場という場所に出た。ちょうどそこに面して中央郵便局があったので、建物前で売っていた絵葉書を多めに買って、ショッピングモール内にあったフードコートでそれを書くことにした。チリに入ってからは、車での移動ばかりで絵葉書を書くタイミングを逃していたせいか、書くことは山ほどあった。ただこの数日間に体験は決して忘れることのできない貴重なものだったので、書きたい内容はかなりの量になってしまい、何人かには便箋を使う羽目になった。気づくと昼過ぎだったので、久しぶりにフードコート内にあったマクドナルドを食べることにした。なぜかセットを注文すると、特大のサンデーまでついてきたのには参ったが、それよりも驚いたのは、ビックマックセットを食べるのにひと苦労したことだった。ずっと少食というよりはゲルマン系の質素な食生活のおかげで、胃が小さくなってしまったようだ。結局、セットに含まれていたフライドポテトは全部食べることができなかった。そこからチリ国内で唯一の地下鉄に乗ってユースまで戻り、2人と合流してレンタカーを返しに、途中ガソリンスタンドで満タンにしてからレンタカー会社のオフィスに向かった。オフィスは郊外にあるホテル内にあった。カウンターでチェックをしてもらっていると、借りた時に発行されたクレジットの控えがないかと係員は尋ねてきたが、どうもそれを渡されたのかなくしてしまったのかわからないが、とにかくないとルディが答えると、困ってしまったようで、わざわざプエルト・モンのオフィスにまで確認し、20分ぐらい待たされてようやく手続きが完了した。 明日で彼らともお別れなので、最後は豪華にとレストランに入った。旅の途中で何度も質問されたことだったが、彼らは日本の教育事情についていろいろと知りたがったが、それはあまりにもドイツのそれとは違いすぎて、彼らは最後までよく理解できないようで、こちらもかなり説明しづらかった。とはいえ、日本人とここまで話した機会は彼らにとっては初めての経験だったらしく、また一緒に旅してくれたことを何度も感謝されたが、逆にこちらの方こそ、素晴らしい体験をさせてくれて感謝したいぐらいだった。久しぶりに街中を歩いたので、思いのほか疲れていた。 2006年 03月 01日
もう季節は3月に入っていた。日本でいえば9月にあたるのだろうが、朝晩の冷え込みは北上し続けても激しく、キャンプ生活もそろそろ終わりにしたいと感じるようになっていた。この日もひたすらに海沿いの道を進んでいった。途中に砂浜とは呼べないような海岸があると車を乗り入れて彼らは海に入っていくが、波は相変わらず高く、とてもこちらは泳ぐ気にもならなかった。オーストリアは内陸国、ドイツは北海に面していてもエルリッヒは最も南部に位置するバイエルン出身であり、彼らにとっては海で泳ぐという行為は、海に囲まれて育った日本人である僕にはわからない特別なことなのかもしれなかった。その後、クリコという街で本当に久しぶりの外食をした。ただ彼らふたりからはサンチアゴに行けば嫌でも外食ばかりになるのだから、ここで何も食べなくてもというようなことを言われた。それはごもっともな意見ではあるが、ここ数日は温かいものと行ったらインスタントスープぐらいだったので、妥協は許されなかった。これはゲルマン民族 だけにいえることかもしれないが、彼らは切り詰めるところは徹底的に切り詰める、そして使う時は思いっきり使うといったメリハリが徹底していた。いかにパンにチーズとサラミが彼らにとってはおにぎりみたいなものでも、それが3日3食続けば、さすがの日本人でも飽きると思うのだが、彼らにはそういった気持ちはないようだった。 また車で走り続けた。レンタカーは5日間しか借りていないので、翌日までにはサンチアゴに着かなければならないので、この日はある程度のところまで行っておかねばならない事情もあった。だが、またしても泊まる場所は決まっていないので、暗くなり始める前に適当な場所を探し始めたが、なかなか見つからなかった。というのも、サンチアゴに近づくにつれて、自然に囲まれた中を走るというようなことはなくなり、小さな集落と集落の間を通っていくという感じになり、そして車の往来も激しくなり始めていたので、側道で野宿をするというわけにもいかなかった。では小さな街とかでどこか安宿でも探せばよいものだが、あくまで彼らはテント生活にこだわるのであり、宿泊代などとんでもないといった雰囲気だった。結局、探しているうちにすっかり暗くなってしまい、ついに道も片側2車線の国道に入ってしまい、それこそ野宿どころではなくなってしまったが、しばらくすると標識が出ていた。そこにはサンチアゴまで70Kmと記されてあった。時刻はすでに9時をまわっていたが、当てもなく走っているよりはいっそのことサンチアゴに行ってしまった方が良いのではと提案した。ただし、サンチアゴに入ったらそれこそどこか宿に泊まらなければならないので、車を停めてユースホステルに電話してみた。運良く英語が話せる人が出て、レセプションは24時間開いていて、駐車場もあるとのことだった。これでテント生活ともおさらばだと喜びがわいてきた。 ![]() ついにサンチアゴまでやってきた。それまで通ってきたところに較べると、やはり都会だった。ユースの場所はすぐに見つかった。サンチアゴのユースはドイツのそれと同じような造りのモダンな内装で、1階のコモンルームではCNN が流れていて、そこは世界各国から集まる旅人がリラックスしているいつものユースの雰囲気だった。前日まで続いていた静寂の中で眠るという贅沢はもうそこにはなく、あれほどまでテント生活から脱出したいと思っていたのに、いざそれが終わってしまうと名残惜しい感傷的な気分になった。本当に自分は天邪鬼だなと思った。 2006年 02月 28日
寒かった。そのせいで一度目覚めたが、時計を見るとまだ3時だったので強引にまた眠った。ようやく朝になり、国立公園をあとにした。この日は進路を少し西にとり、車は海を目指して、海外線を北上するルートをとった。見えてきた海は紛れもなく太平洋だった。ただし我々日本人にとって太平洋とは南の方角に広がっているものだが、ちょうど地球の反対側のチリでのそれは北西に向かって広がっていて不思議な気がした。海はかなり波が高くとても泳げるような感じではなかったが、それでもルディは強引に海の中に入っていった。まさに死をも恐れないような凄まじい勢いで海に飛び込んでいったが、しばらくすると、さすがに疲れたのか車に戻ってきた。特に目指す目的地もあるわけではないので、ひたすらに北上するしかないのだが、さすがに時間も夕方になってくると、どこか泊まる場所を見つけなければならない。ロンリープラネットにも掲載されていないような小さな街が続いていたので情報も全くなかった。しまいには運転しているルディと道案内をしているエルリッヒが喧嘩までし出して、車内は不穏な空気に包まれたりもした。仕方なくある港町で、3人の中では一番スペイン語の単語が操れる自分が適当な人を捕まえて、この辺にキャンプ場がないかと尋ねてみるが、返ってくる返事はどれも頼りなげな情報ばかりで、野宿の可能性が現実を帯びてきた。気が治まらないルディはもう運転しないと子供のようなことを言うので、レンタカーを借りて初めてエルリッヒがハンドルを握った。その運転は性格を反映するように、実に慎重な運転で、後部座席に乗っているこちらも安心して乗ることができた。 海岸線の道から少し内陸の道へ方向転換した。海より森の方が、キャンプ場があるのではという勝手な勘からだったが、これが見事に的中してキャンプ場の看板がしばらく走ると現れたので驚いた。そのキャンプ場は家族経営のような小さなもので、我々以外には泊まっている人はいないようだった。事務所兼住居のような所から女性が出てきて、僕が話す赤子以下のスペイン語に耳を傾けてくれた。本来ならこの得体の知れない外国人を警戒しそうなものだが、彼女はそんな素振りも見せずに値段や設備についてゆっくりと教えてくれた。野宿だけは避けることができたので、ふたりもいつの間にか機嫌が良くなっている。この日も結局食堂には入れなかったが、その代わりに昼間スーパーでスープの素を買っておいた。お湯を沸かしただけだが、暖かいものがあるのとないのでは贅沢度が違った。この日は火もつけることができ、暖を取りながら3人で遅くまで話した。 2006年 02月 27日
寒さで目が覚めた。寝袋だけではとても寝ていられないほど空気がひんやりとしていた。簡単に朝食を済ませ、さっそく出発した。相変わらず運転するのはルディだったが、性格を現すように運転は荒かった。一緒に行動して数日、だんだんと彼らの関係がわかるようになってきた。運転同様に気性が荒いオーストリア人のルディは水道管などの修理工で、娘がひとりいるようだったが、離婚してしまい、今では奥さんが育てているので時々しか会わせてもらえないと嘆いていた。一方、眼鏡をかけて見た目にもおっとりとしたドイツ人のエルリッヒはミュンヘンで自転車配達便の会社を経営していた。ただ時々は自分でも自転車に乗って荷物を届けているというから、本当に個人経営の会社のようだった。そして彼は独身だった。 そんな彼らふたりの関係は小学校の幼なじみという真柄だった。日本とドイツでは教育制度 も違うので、小学校というのは語弊があるかもしれない。特にドイツで最も保守的なバイエルン州の教育制度 は、小さな頃から自らが進むべく道を確定し、それに合った専門の学校にそれぞれ進んでいくという形を取っていて、最終学歴の異なる彼らが一緒に過ごした時期は本当に幼い頃だと思われた。ところで、オーストリア人であるルディがなぜドイツ人のエルリッヒと小さな頃同じ学校で学んでいたのか気になったが、彼らの説明によると、国境近くではたとえオーストリアの国籍を持っていても、越境してドイツの学校に通うことがよくあるのだという。それは同じ言語、また元を辿れば同じ民族というこの二国間のみで通用するシステムなのかもしれないが、市町村を跨いで学校に通うことさえ難しい日本と比べると面白いシステムに聞こえた。ともかく幼なじみの彼らがわざわざ休みを取ってアルゼンチンまで来たのは、どうやらその学校で一緒だった彼ら共通の友人がアルゼンチン人の女性と結婚して、アルゼンチンで開かれるその式に出席するためだった。それにしても、結婚式に参加するというだけで2週間以上もの休暇が貰える彼らが羨ましかった。 この日は、基本的に移動はせずに湖水地方内を周遊する計画だった。その中でも火山に近いリゾート地であるプーコンという街に寄った。ちょうどフェスティバルが行われるようで街中は交通規制が行われるほどの盛況振りだった。観光案内所で情報を仕入れた後、車でビジャリカ火山 の麓まで行き、そこからは道なき道を進んでいくと、ちょうど五合目ぐらいのところまで行くことができた。ビジャリカ火山 の雄大な姿もさることながら、それを背にして望むプーコンの街とその奥にある湖と雪山群に息をのんだ。その後、車を走らせて国立公園内にあるキャンプ場に泊まることにした。エルリッヒとルディは周辺をトレッキングしてくると言って出かけていったが、自分は湖畔で寝そべって本を読んで過ごした。日差しが暑く、体が火照ってくると水の中に入り、また本を読む。その繰り返しをしている内に日が暮れだした。この日の夜も冷え込んできたが、残念ながら火をつけることはできなかった。彼らと旅していて困ったことがあるとすれば食事だった。彼らには3食続けてのパンにハムやチーズといった冷えた食事でも全く苦にならないようだった。しかし、自分はそろそろ暖かい物が食べたくなっていたので、なんとか次の日はどこかの食堂に入ってくれるようお願いして眠りについた。2006年 02月 26日
朝から小雨が降っていた。しかし夜にはわからなかった湖の全体像が少なからず見えた。どうやらジャンキウエ湖という名で、晴れていれば反対側にオソルノ山が見えるはずだった。朝食はパン・サラミ・チーズというゲルマン民族にとってはこれ以上望むべくもない朝食メニューであったが、日本人には寂しかった。そんな中を車は湖に沿って走り出し、ペトロウエの滝を目指した。大きな看板もないので見落としがちな入口だったが、駐車場から森の中を歩いていくと、落差は低いがなかなか雄大な光景があらわれた。朝早い時間のためか、観光客は数人で静かさが贅沢に感じられた。先を目指して車を走らせていると、ありがたいことに空が晴れてきた。ようやくチリ富士とよばれるオソルノ山を拝むことができたが、その名の通り、頂には万年雪を抱えていて、富士山のようだった。 昼頃にロス・ラゴスという小さな村に着いた。ここで今後の食料を買い足そうということになったが、村の規模同様に小さなスーパーはシエスタに入る直前で、あやうく昼食を買いそびれるところだった。無事に調達を終えると、国立公園内にあるリニフエ湖で昼食を取ろうということになった。このリニエフ湖が本当に美しい場所で、青い空、緑の湖、そして遠くに雪を頂いた山々があって、水温は低かったものの、水着に着替えて泳いでいると、最高に気持ちが良かった。チリは南北に伸びる長細い地形をしているが、首都のサンチアゴを境にして北側は砂漠地帯、そして南側は湖水地帯が広がっていることで有名だったが、日本のガイドブックに詳しく載っているのは北側ばかりで、南側についてはほとんど掲載されていなかった。それもそのはずで、この周辺は車でなければ訪れることができないような場所が多く、海外を車で周遊するという習慣があまりない日本人には紹介されることがないのも当然といえた。しかし、一緒に旅しているのは旅のスペシャリストであるドイツ人である。昨日まで感じていた不安はすっかり吹き飛んで、彼らと出会ったのを幸運と思わずにいられなかった。湖での時間を堪能した後、また別の場所にある湖を目指した。ロンリープラネットのすごいところは、あらゆる旅のスタイルにも適応する情報が掲載されていることであり、それは車で旅する人にとっても有用な情報が豊富で、この日はそこに掲載されていたあるパンギブジ湖畔にあった小さなキャンプ場で一夜を過ごすことにした。屋外にあったシャワーを浴びて戻ると、ルディが火をおこし始めていた。2月でも緯度が低いためか、夜になるとかなり冷え込むので、暖を取るにはありがたかった。コーヒーとまたしてもパンとサラミにチーズという組み合わせの夕食だったが、見上げれば満天の星空が広がっていて、これ以上の贅沢はないような錯覚に陥った。いやそれは錯覚ではなく、今思えば間違いなく贅沢な時間だった。 2006年 02月 25日
バリローチェからプエルト・モンまでのルートは街に面したナウエル・ウアピ湖を旋回するようにチリまでの国境は続く。周囲には2000メートル級の山々が連なっていて、その自然の光景はまた素晴らしかった。プエルト・モンへは数社のバスが同時刻発で運行しているので、一本道しかないため数台のバスが連なって進んでいくという修学旅行を思い出させるような形だった。当然、速度も一緒で、抜いたり抜かれたりすることはないので、そのままの順番で国境にたどりつき、乗客が一斉に降りるので、かなり賑やかな雰囲気であった。その人数を捌くわりには国境にいる係員の数は両国とも少ない。よって結構な時間がかかるのである。珍しく自分とは違うバスに乗っていたらしい日本人の団体がいた。こんな所にまで日本のツアーは進出しているのかと驚くとともに、彼らの方もひとりで旅している僕の姿に気づいて珍しそうに話しかけてきた。なかにはこのゆっくりした状況に苛立っている人もいたのが、それがいかにも日本人らしくてなぜか懐かしかった。ようやく国境を抜けてチリに入った。この旅で5カ国目になった。 プエルト・モンには夕方に到着した。さっそく3人でレンタカー屋に向かった。運良く英語のわかる人が事務所にいて、サンチアゴまで5日間を全て込みの値段で、300$弱で借りることができた。ひとり当たり1日2,000円ほどの計算になり、ガソリン代を考えても許せる範囲だった。すぐ横にあった駐車場に置かれていたのは日産サニーだった。それも古い型のものだったが、日本車ならば壊れることもないだろうとかえって安心した。さっそくルディが運転をし、エルリッヒが横でナビをして、自分は後部座席に座ってさえすれば良かった。先に行く前に、どうしても寄りたい場所があった。それはプエルト・モンから西に2キロほど行ったところにあるアンヘルモ という漁港だった。 隣国同士でも、牛肉ばかり食べていたアルゼンチンとは対照的に、南北に長くずっと太平洋に面しているチリは魚貝類の料理が有名だった。このアンヘルモ ではクラント という貝やジャガイモの煮込みが名物で、ぜひそれを食べてみたかったのだ。適当な1軒に入ってそれを注文した。内陸国であるオーストリア人のルディはあまり魚貝類が得意ではないようだったが、このクラント は気に入ったようだった。また自分はそれとは別にアナゴ のフライを注文した。最初アナゴ と聞いて、ふたりは本当に食べるのかというような目をしていた。出てきたフライにレモンをかけて食べてみると、あっさりしていて実に美味しかった。エルリッヒはひと口食べてみたが、ルディは決して食べようとはしなかった。レストランを出ると、すでに暗くなり始めていた。宿はどうするのかと尋ねると、テントを持ってきているのでどこかで野宿をするのだという。よもやこんなところで持ってきておいた寝袋が役に立つとは思わなかった。アンヘルモ を出てしばらくすると、集落も何もまったくなくなってしまい、道を照らす外灯さえもなくなり、明かりは車のヘッドライトだけになった。車はどこかの湖に沿って走っているようだったが、霧が出始めた。今日はこの辺で停めようということになり、道路から少し入った草原の上で、ふたりは手際よくテントを組み立て始めた。このままサンチアゴまで、このような野宿が続くのかと質問したら、明日はキャンプ場に泊まる予定だという。ただし、彼らにとってもチリは予定外の行動だったので、頼れるのは僕が持っていたロンリープラネット だけだった。曇っているのか星は見えず、マグライトを消すと本当に真っ暗になった。その暗さのせいか、レンタカーを借りて本当に良かったのかと不安になり、テントに入って横になったがなかなか寝付けなかった。 2006年 02月 24日
パタゴニア地方とは、アルゼンチンのちょうど南北の中間あたりを流れるコロラド川から南の地域全体のことを指し、その面積は隣国チリも含めれば日本の3倍にもなる。バリローチェはブエノスアイレスからは、かなり南にあるものの、パタゴニア地方では最北端に位置する街となり、よってパタゴニアの玄関口と呼ばれている。バリローチェ周辺にも素晴らしい自然の景色が広がってはいるが、本来パタゴニアといわれて想像する氷河地方やパイネ国立公園などは、ここからさらに1000キロほど南に行かなければならなかった。当然、そこまでは飛行機を使うことになり、また国立公園などをまわるにはツアーに参加するしかなかった。世界最南端といわれるウシュアイアなど、行ってみたい気持ちはあったものの、時間と予算を考えると、そこまで行くのは諦めざるを得なかった。午前中に街にあるパタゴニア博物館に行ったエルリッヒとルディが宿に戻ってきた。予定を変更して、自分と一緒にチリにあるプエルト・モンへ行くことにしたという。そして、プエルト・モンから首都のサンチアゴまではレンタカーを借りて北上していくので、ぜひ一緒に行かないかと誘われた。チリに入ったら、すぐにバスでサンチアゴまで行こうと考えていた。というのは、その間にはほとんど見るべきところがないと思っていたからだった。ところがエルリッヒが説明するには、チリの南側には有名な湖水地方があり、アンデス山脈が奥に聳えたその景色はまた格別なものだと力説し始めた。ただ、そこに行くには公共交通機関がほとんどないので、レンタカーを借りるしかないのだという。こういう時は旅の達人であるドイツ人に全てを任せた方が断然良く面白そうなので、その案に便乗させてもらうことにした。 夕食後、テレビではサッカーの親善試合が放送されていた。最初はチリ対どこかの国の試合を中継していたが、その後はいよいよ地元アルゼンチン-ルーマニアの試合が始まった。宿の中はすでに興奮状態に入っていたが、そんな雰囲気の中をアルゼンチンが先制した。もうすっかりお祭り騒ぎである。ところがルーマニアに追いつかれてしまい、そのまま試合は小康状態のままが続き終了に近づいてきた。お祭り騒ぎは一転して、テレビの前は暗いムードが覆っていた。しかし終了間際、アルゼンチン代表は奇跡的に2点を入れて、ルーマニア代表を見事に破った。もちろん見ていたアルゼンチン人は先程にも増して大騒ぎである。そして、なんといっても笑えたのは中継していたアナウンサーの絶叫ぶりだった。あくまで親善試合でこの調子では、ワールドカップやクラブ選手権などで優勝でもしたら、どうなってしまうのかと想像しただけでも苦笑できた。 2006年 02月 23日
朝から曇り空で小雨もぱらつく天気では、こういった景色を楽しむ観光地ではやることがない。仕方がないのでベッドで本を読んでいると、昼前にルディが、天気が回復したぞと教えてくれた。急いで着替えて外に出ると、本当に気持ち良いぐらい晴れていた。街に出て、次の目的地であるチリのプエルトモンまでのバスチケットを買った後、街からバスに乗って30分ほどの場所にあるカンパナリオの丘 に向かった。バリローチェを包むように広がるナウエル・ウアピ国立公園 には、山や森に湖といった自然の魅力があふれている。それを一望できるのが標高1,060mのカンパナリオの丘 だった。丘の頂上まではスキー場にあるようなリフトが出ていて、値段が上がっていたのは癪に障ったが、それ以外に上る方法もないので、しぶしぶ払った。 ところが頂上に着いて眺めた光景はどうであろう。そんな数ペソのことで憤慨していた自分がなさけなくなるほどの自然の大パノラマが広がっていた。ロペス山・オットー山・カテドラル山 と連なり、平野部には氷河によってつくられた湖が点在していた。南米のスイス と呼ばれるバリローチェだが、はっきりいってスイスのアルプス に行ったことがないので比較しようがなかったが、期待していなかっただけにその光景には感動せずにはいられなかった。そんな素晴らしい景色が広がっているのに、不思議と他に観光客がいないのも気に入った点で、本当に音らしい音は風の音ぐらいで、まさに贅沢を独り占めしている気分を味わえた。一応、頂上には見学できる展望台のような場所もあったが、基本的にはむき出しの岩肌に自ら上って好きなように楽しむことができた。バックから買っておいたサンドウィッチを取り出して食べながら、本当にここまで来て良かったと素直に感じた。ここまで感動してしまうと、なかなかリフトで下りるのが惜しくなってしまい、ようやく日が落ち出してきたのを確認してから丘を後にした。街に戻ると、山の麓へ夕日が沈んでいくのが見え、山肌が赤くなっていて、それを湖畔から眺めながら絵葉書を書いた。宿ではこの日の夕食がアサードパーティー になっていて、庭先でどんどん肉が焼かれていた。アルゼンチンという国は本当に畜産が盛んなためか、どこへ行ってもこのように年がら年中、肉を食べているのかと思うほどだった。ソファが置かれた団欒室にあるテレビからはCNN が流されていた。アメリカがイラクに対して空爆 を行ったというようなニュースが報じられていたが、地球の南端にある美しく静かな場所にいると、それが同じ地球の上で起こっていることとはとても思えなかった。 2006年 02月 22日
ブエノスアイレスにはふたつの空港があった。使ったことがないのでわからないが、ガイドによれば南米随一の近代的な建物らしい国際線の離発着が多いエサイア国際空港と、国内線が主に飛び立つホルへ・ニューベリー空港であった。パタゴニアの玄関口であるバリローチェまでは当然小さな方のホルへ・ニューベリー空港を利用することになった。宿からバスをふたつ乗り継いで着いた空港は、ターミナルと呼ぶには少し大げさな建物以外には特に何もなく、建物入口からすぐのところにチェックインカウンターがあった。バリローチェまでの便はラパ航空という国内専門航空会社のものだったが、南半球は今がちょうど夏でオンシーズンということもあり、ラパ航空だけでも1日2便、他の会社も何便か飛ばしているようだった。飛行機に乗る際も搭乗ゲートというものはなく、ターミナルから外に出て、遠くに見える飛行機まで歩いていくといった感じのローカルな空港で、当然飛行機もそれに倣うかのように小さな機体だった。飛行機が飛び立つと、眼下にはブエノスアイレスとラ・プラタ川が見えたが、すぐに何もない平野だけが広がる景色に変わった。2時間後、バリローチェにまもなく着陸するとのアナウンスがスペイン語だけで行われたが、周りの様子からなんとなく想像できた。本当に何もないところに空港だけ造ったような自然豊かな光景が広がっていた。バリローチェ空港もまた小さく、機内に預けられた荷物が係員自らによって引かれた台車に載せられて出てくるようなのんびりした空港だった。離れたバリローチェの街までのバスは30分後にならないと出発しないとのことだったが、運良く隣に停まっていたツアーバスに乗ることができた。街に着くと、一軒だけあるユースに向かった。宿の主人であるカルロスは英語も話せてとても親切な人で、アルゼンチン人をはじめとして世界各国からの旅行者が集まっていた。 さっそく街に繰り出したが、この日が日曜日のために商店のほとんどは閉まっていた。ただ南米のスイスと呼ばれる地方だけあり、通りを歩く観光客の数は多く、中心であるセントロシビコは本当に美しい街並みだった。その真ん中の広場ではセントバーナードを連れた写真家のおじいさんがいて、彼らは街のいわゆる名物となっているらしかった。宿に戻ると、同部屋の旅行者が戻ってきていた。自分よりは10歳ほど年上の2人組で、お互いに自己紹介をすると、ミュンヘン出身のドイツ人・エルリッヒとオーストリア人のルディということがわかった。それがわかった途端に、こちらがまだある程度覚えていたドイツ語で話し出すと、ふたりとも目を丸くして驚いた。そこから急に意気投合し出して、夕食を一緒に食べに出かけた。それから1週間近く、彼らとともに旅をすることになろうとは、この時はまだ思いもしなかった。 2006年 02月 21日
数あるブエノスアイレスの地区の中でも、ボカ地区は古くはヨーロッパからの船すべてが停泊した場所であり、今でも当時の雰囲気を残したどちらかというと下町的な雰囲気を残している場所であった。セントロからは少し離れているので、国会議事堂前からバスで向かった。ボカ地区で有名なのは、なんといってもカミニートで、訳すと小径という意味らしいが、まさにその一角だけ立ち並ぶ家々の壁がカラフルに塗られていた。これはボカ出身の画家キンケラ・マルティンによるものだったが、本当にそれは一角と呼ぶに相応しい小さな場所であった。またアルゼンチンといえばタンゴだが、それが生まれたのもこの地区だといわれている。そういうわけか、カミニートの路上ではタンゴを踊っている人もいた。 ボカという名前を聞いてサッカーに詳しければ、ボカ・ジュニオルズというサッカーチームを思い出すかもしれない。かのマラドーナも所属したこの下町チームのホームグラウンドがカミニートから少し歩いた場所にあった。試合は行われていなかったが、競技場に入ることができた。6万人の観客が収容できるということだったが、とてもそうは見えないピッチと観客席が近い小ぢんまりとした競技場だった。競技場の外に出ると、試合がない日なので辺りは閑散としていた。その中に寂れた雑貨屋があり、マラドーナのポスターや写真が店中に張られていた。彼が率いるアルゼンチン代表がメキシコで行われたワールドカップで優勝してからすでに10年以上の歳月が過ぎているのに、まだまだ彼の人気は、特にこのボカ地区においては留まる所を知らないようだった。いや彼は彼らの記憶の中に残る永遠の英雄なのかもしれない。アルゼンチン代表が優勝した時、果たしてここはどれほどの騒ぎになったのかを想像しながら、静まりかえった街を歩いた。バスでセントロまで戻った。ここまで一緒の宿にいて、なにかとお世話になったIさんがこの日の夜行でリオデジャネイロに向かうため、最後の晩餐を宿に泊まっていた仲間で取ろうということになっていた。日本人にオーストラリア人・オランダ人そしてドイツ人のメンバーで、食べるのはもちろんアサードであった。大盛りのチョリソをつつきながら、会話が弾んだが、我々以外の3人はさすが肉食人種だけあって、食べる量も違った。もう1軒行くという3人を残して、Iさんを見送るためレティーロバスターミナルまで行った。リオではちょうどカーニバルが始まる時期で、Iさんはそれが目的であったが、宿の予約もなく果たして泊まるところが確保できるのか心配だった。当の本人は何とかなるでしょうと楽観的だったが、確かにどんな時でもなんとかなってしまうのが旅というものかもしれない。彼の後を追うように、僕も明日、ブエノスアイレスを離れることになった。 2006年 02月 20日
バスは行きとは違い今度はラ・プラタ川をグルっとまわるように陸伝いに走ってブエノスアイレスを目指した。夜中の2時半、寝ていたところを起こされて、国境事務所で簡単なチェックを受けた後、またバスに戻って眠った。次に目を覚ました時にはもう7時前でレティーロバスターミナルに到着する寸前だった。運良くサンマルティン広場からユースに向かうコレクティーボに乗ることができ、つつがなく宿に戻ることができた。すでに何人かの宿泊客が起きていて、モンテビデオはどうだったと冷やかし半分に聞くので、ぜひ行った方が良いと本気で薦めておいた。別に目的などなく、いやただその街をこの目で見てみたいという気持ちだけで充分だと、この時には感じるようになっていた。さすがに夜行バスであまり眠れなかったせいもあり、昼過ぎまでまた眠ってしまった。 起きるとお腹が空いていた。またアサードでも良かったが、さすがに3日連続で牛肉ばかり食べていてもどうかと思い、ロンプラに乗っていたピザ屋に行ってみることにした。それはモンセラート地区というところにあり、ちょうど国会議事堂とその前にある国会議事堂広場に面してある小さな店だった。店内に入り、小さい方を注文したがなかなか出てこない。自分が座っている横では中年のおじさん達がピザを一切れずつ食べていた。これはまずいと思った矢先、3人分以上はあろうかという巨大なピザが出てきた。おそらくここでは一切れ単位で注文するのが基本だったようだ。ただ頼んでしまった以上、それを意地で食べつくした。量はすごかったが、だからといって味が落ちるということではなく、そんな大きなピザでもなんとか完食できたのはすこぶる美味しかったからに他ならない。 国会議事堂広場からは港の方に向かって真っ直ぐに5月大通りが伸びていた。ここをゆっくり歩きながら進んでいくと、7月9日大通りと交差した。さらに行くと街で最古のカフェバーらしいカフェ・トルトーニの前に出た。ここは素通りして、市議会として使用されているカビルドを過ぎると、5月大通りの最後となる5月広場があり、先にはピンクの壁が珍しい大統領府が建っていた。この5月広場こそがブエノスアイレス発祥の地で、アルゼンチンの歴史の中で数々の事件が起こった場所でもあった。しかし、今ではアイスクリーム屋の屋台や露天商がいるのんびりとした静かな広場だった。この広場のベンチに座り、日本から持ってきた文庫本を読んだ。南米では移動時間はバスが多く、思いのほか本を読む時間が少なかったので、これがまだ旅に出て読む本の2冊目だった。何を読んでいたのかは忘れてしまったが、熱中していたせいかあっという間に時間が過ぎてしまい、気がつくとIさんと待ち合わせをした時刻になろうとしていた。そういう時にかぎって、バスはなかなか来ない。ようやく走ってきたバスはなんと同じ番号が2台続いていた。なんとか無事に待ち合わせ場所に到着したが、そこはラ・プラザというショッピングセンターだった。これまで南米というイメージを覆すヨーロッパ的な街並みのブエノスアイレスだったが、このショッピングモールはアメリカのそれのようなお洒落な場所で、こんなところもあるのかとブエノスアイレスのある意味、奥深さを思い知った。2006年 02月 19日
モンテビデオに行ってくることを言うと、同じ宿に泊まっていたほぼ全員から、何のためにとか、どうしてとか聞かれ、しまいにはやめといた方が良いとまで言われた。別に治安が悪いからやめろと忠告されているのではなく、本当に何もないからという理由からだった。逆にそう言われると、では自分の目でそれを確かめたくなるのが、旅人の常というやつで、メインのバックパックは宿に置いておき、小さなリュックで朝になって出かけた。ここからモンテビデオまでは、ラ・プラタ川 を渡って対岸ウルグアイのコロニアまで行き、そこからバスに乗っていく方法を取った。港で出入国審査が同時に行われ、船に乗る前からパスポートにはウルグアイの入国スタンプが捺されていた。コロニアまでの高速フェリーは席に座っている客も疎らにもかかわらず、採算を度外視したかのように豪華な船で驚いたが、船内の案内表示板にアラビア文字が使われていたのを見て、アラブのどこかの国で使用されていたものを中古で使っているのではないかと思われた。しばらくして、船はゆっくりと動き出した。いくら河口付近とはいえ、ラ・プラタ川 は海かと思えるほど幅が広く、対岸のコロニアまで高速フェリーでも1時間もかかるほどで、そういえばスペインのアルヘシラスからモロッコのタンジェまでジブラルタル海峡 を渡った時も、このくらい時間がかかったことを思い出した。コロニアの港ではバスが待機していて、そのまますぐに乗客のほとんどが乗り込んだ。これがウルグアイの景色かというほどの変化はなく、当然言葉も同じスペイン語なので、時々見える看板表示などもアルゼンチンと変わらない。もしかすると、お互いの国の人にはわかるのかもしれないが、アルゼンチン人とウルグアイ人の違いも自分には判別できなかった。そんな風景を眺めているうちに寝てしまい、気づいたらもうモンテビデオ市街に入っていた。バスが到着したトレスクルセスターミナル は、アメリカのモールを思わせるようなそれはモダンな建物だった。少し郊外にあるため、中心部までバスで向かった。 モンテビデオは7月18日大通り と呼ばれるメインストリート周辺が一番賑やかなので、その周辺でバスを降りた。通りはホテル・レストラン・商店と全てが揃っていてなかなかお洒落だった。途中にある>カガンチャ広場 にある観光案内所で市内地図を貰い、さらに進むと独立広場 に出た。この広場にある門をくぐった先から旧市街が始まった。確かにこれまで歩いてきた新市街はビルが立ちならぶ都会だったが、ここからは道も歩行者天国になり、建物の高さも急に低くなって雰囲気がガラっと変わった。旧市街の中心は憲法広場 というヨーロッパにあるような石畳の広場で、さっそく買った絵葉書を広場に面していたカフェに入って書き始めた。ブエノスアイレスもそうだったが、モンテビデオもどこかヨーロッパを思わせるような街並みで、それはスペイン・イタリア系が90%を占める人口比率にも影響しているのかもしれなかった。さらに旧市街を進んでいったが、道が狭まり、人気が少なくなってきたのが気がかりだったが、警戒しながら歩いていくと、目指していた市場 が見えてきた。このラ・プラタ川 に面したモンテビデオ港 に隣接する100年以上の歴史を持つ市場 では、ウルグアイ名物のパリージャレストラン 、つまり焼肉屋が多く入っていて、煙が充満した市場内は食欲をそそる匂いが充満していた。カウンター席で簡単に食べられる店に入って、適当に注文するとお決まりの分厚い肉と山盛りのフライドポテトが出てきた。昼食兼夕食にして、もう食べられないというところまでむさぼるように食べた。膨らんだお腹を抱えて市場を出ると、目の前にラ・プラタ川 が広がっていた。宿でみんなが言うほど何もなくはなかったが、1泊するほどでもないモンテビデオだったので、その後にまた新市街まで戻って時間をつぶした後、この日の夜行バスでブエノスアイレスまで戻ることにした。2006年 02月 18日
ゆっくりと起き出し、昨日スーパーで買っておいたパンとヨーグルトの簡単な朝食をとった。これも冷蔵庫があるおかげであり、冷えた牛乳がさらに美味しかった。物価が少し高いことを除けば、ブエノスアイレスは治安も悪くなく、実に居心地の良い街だった。ほとんどの道が一方通行なので、コレクティーボ に乗っても迷うことがほとんどなく、適当な場所で降りて歩けば地下鉄の駅か、また別方向に向かうコレクティーボ がやってきて、また元通りの場所に簡単に戻ることができた。歩行者天国の歩道では路上でタンゴ を踊るペアがいて、わざわざ高いお金を払って劇場に行かなくても、本場のタンゴ を楽しむことができた。そして、なんといってもアルゼンチンで嬉しかったのは肉料理だった。アサード と呼ばれる肉の炭火焼が名物で、特に名産の牛肉が半端な量ではなくもの凄い大きな塊が安い値段で食べられ、味付けは塩と胡椒にレモンをかけるくらいだが、軽く平らげることができた。またパリジャーダ というソーセージや臓物の炭火焼もボリュームがあり、男3人で食べるのがやっというぐらいの量だった。 お昼にそんな肉の塊を食べてしまうと、暖かい気候も手伝って睡魔に襲われるに決まっている。そういう時は逆らわずに、宿に戻って昼寝をして、また夕方街に繰り出した。アルゼンチン人の夜はゆっくりなようで、夜遅くまで店が開いていて、街も明るかった。さすがにもう肉は食べれないので、カフェで簡単に夕食を済ませた後、また映画館に入った。この日に見たのはジェームズ・ボンドの最新作「007 トゥモロー・ネヴァー・ダイ 」だったが、これまた単純明快なストーリーで楽しめた。映画が終わっても、まだまだブエノスアイレスの夜は続いていて、この日も宿に変えるのは遅くなってしまった。 2006年 02月 17日
ユースで出会ったⅠさんという方が、ブエノスアイレスにあるもうひとつのユースに移るというので一緒に行くことにした。市内を縦横無尽に走っているコレクティーボと呼ばれる路線バスに乗っていくこと1時間ほどでそのユースに着いた。一軒家を改装したようなこじんまりとした所だったが、宿泊客が共同で使える簡単なキッチンと冷蔵庫があり、宿の女主人も親切でこの宿が気に入った。荷物を置くと、書き溜めておいた葉書を出しに郵便局へ寄ってから、またコレクティーボに乗って街の中心地に行った。 一緒に宿を移ったⅠさんはブエノスアイレスの後は、リオデジャネイロでカーニバルを見る予定だった。そのため、ブラジル領事館でビザを申請してあり、それを取りに行くのにつきあった。領事館はブエノスアイレスを南北に貫く7月9日通り近くにあった。この通りの幅がとにかく広く、真ん中にはオベリスコという塔があり、また近くには世界三大劇場といわれるコロン劇場や国立セルバンテス劇場などの重厚な建物が並んでいた。昼食はCOTOというスーパーの2階にあるカフェテリアに入った。ここはロンプラで紹介されていた場所で、いろいろな料理が並んでいて、好きな物を取っただけ払うという仕組みになっていて、安かったので取ってみたビーフステーキもなかなかいけた。マクドナルドのセットが5ドルもしたことを考えると、このカフェテリアはお得感があった。 昼食後にⅠさんとは一度別れ、自分はフロリダ通り周辺にある旅行代理店をまわることにした。それはウルグアイのモンテビデオまでのチケットと、その後に行くつもりでいたバリローチェというパタゴニアにある街へのチケットを買うためだった。旅行代理店の店先のガラスには行き先と値段が書かれた札が貼られていて、だいたいの相場は理解できた。さて、どこに入るべきかと悩んだ結果、比較的混んでいる1軒に入った。応対してくれたお兄さんはとても丁寧にいろいろと教えてくれたので、なぜかスペイン語で説明されているのに、なんとなく理解できて、知らぬ間に希望通りのチケットが、思っていたより安く買うことができた。2週間旅していて、だいぶスペイン語にも慣れていたのかもしれないが、それでもあっさりしていた。チケットが手に入って先の日程が決まると、そう躍起になって街を見なくてもいいかなという気分になってきた。実はユースで出会ったヤニフというユダヤ人から、ブエノスアイレスでは映画が3.5ドルで見ることができるということを聞いていた。それも封切られたばかりのハリウッド映画でさえも、そんな安い値段で見られるというので、これ幸いとリチャード・ギアとブルース・ウィリスが出演していた「ジャッカル」という映画を見ることにした。上映は吹き替えではなく、スペイン語字幕で、さらにこれは読んだことのあるフレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」のリメイクだったので、内容はほとんど理解できた。わざわざブエノスアイレスまで来て、映画を見るなど思いもしなかったが、値段が値段だけにこれは病みつきになりそうだった。
2006年 02月 16日
朝6時半過ぎに、バスはブエノスアイレスのレティーロバスターミナルに到着した。ターミナルはなかなか近代的な建物で、建物の外には月曜日の朝ということを差し引いても、通勤客なのか、かなりの人が歩いていた。すぐに宿に向かうため、地下鉄に乗った。車両自体はかなり老朽化した代物だったが、駅自体はきれいだった。この地下鉄で一番古い路線は1913年の開通といい、当時は日本からも視察団が訪れたらしく、東京の銀座線のモデルにもなっているらしいから、かなりの年代物だった。この時乗ったのはリネアCと呼ばれる路線で、ちょうどバスターミナルのあるレティーロ駅ら終点のコンスティトゥシオン駅まで端から端まで乗って行くことになった。 そのコンスティトゥシオン駅から歩いて10分ほどの住宅街にユースホステルはあった。ブラジル・パラグアイと個室に続けて泊まってきたので、この旅でドミトリーに泊まるのはこれが初めてだった。建物は大きな屋敷を改装して使っているような感じで、自分は1階にある薄暗い部屋をあてがわれた。2階に上がった部分に中庭のような場所があり、そこのベンチでは各国から来た旅行者が寛いでいて、懐かしいユースの雰囲気がそこにはあった。途中で買ってきたサンドウィッチを食べながら、ブエノスアイレスの地図を広げて、どうしようか考えた結果、まずは手元の現金が心細くなってきたので、持ち合わせていたTCが手数料なしで交換できるという理由から、アメリカンエキスプレスのオフィスまで行き、両替をすることにした。オフィスはバスが到着したレティーロバスターミナルのすぐ近くにあるサン・マルティン広場の一角にあった。アルゼンチンではフォークランド紛争以後、数度のデノミを行うほどのインフレに見舞われ、最後には自国通貨の1ペソ=1米ドルの固定制を導入していた。そのためか、街では米ドル紙幣がペソ同様、普通に使うことができ、米ドルで払うとペソでお釣りが来るという極めて不思議な体験ができた。というわけで、自分も米ドル建てTCをそのまま米ドル紙幣に両替してもらった。 ![]() 両替した後、街を歩いているとブエノスアイレスで一番賑やかな通りであるフロリダ通りに出た。イタリアやフランスを思わせる洒落た店が並ぶショッピング通りで、さらに進むとそのフロリダ通りと直角に交わるラバージュ通りとコリエンテス通りという人通りの激しいふたつの通りに出た。ブエノスアイレスは南米のパリと呼ばれているとガイドブックに書いてあり、果たしてどんなものであろうと、来て見るまでは少し懐疑的であったが、この周辺を歩いていると、まさにその呼び名がぴったりと当てはまり、スーツをビシッと着こなした紳士や洗練された装いの女性たちが闊歩しているのを見ると、ここが南米であることを忘れてしまいかねないほどだった。街の雰囲気や地理的な構図を頭に入れておくために、その後も夕方までずっと歩きまわっていると、だいたいの位置的な関係は掴めてきた。とにかくブエノスアイレスは予想以上の都会であることがわかった。ユースに戻ると、数人から夕飯に誘われたので、コンスティトゥシオン駅周辺の繁華街にあった中国人が経営する中華ブッフェの店に入った。味付けはいまいちだったが、5ドルで食べ放題ならコストパフォーマンスはまずまずといえた。ユースに戻り、何人かの人と話をしたが、パタゴニアでトレッキングをするという人、またアンデスのどこかでロッククライミングをするという人、ブラジルのアマゾン川で釣りをするという人、彼らは何かしらの目的を持ってこの南米に来ていた。それに較べて、自分には何か目的があっただろうか。彼らの話を聞きながら、ひとり自問したがはっきりとした答えは出なかった。 2006年 02月 15日
朝食を済ませて、フロントで宿代を払おうとしたら金額が予想よりも安かったのはありがたかったが、どう考えても3泊分なのに3では割り切れない数字で、本当に大丈夫かといらぬ心配までしたが、眠そうなパラグアイ人の従業員はそれで問題ないという。ところが、肝心のお釣りがないとのことで、食堂へ行ったり、どこかへ探しに行ったりと朝からひと騒動だった。バスターミナルへは8番もしくは10番のバスに乗っていけばよかったが、この日が日曜日だったこともあり、一向にそれらのバスが来る気配がない。しばらくすると、ターミナルと行き先の書かれた14番のバスがやってきたので、これでも着くのだろうと乗り込んだ。バスはいわゆるボンネットバス というすでに日本ではほとんど見ることのできなくなった旧式の物で、運転手がギアを変えるたびにもの凄い音がした。ところが、このバスがやたらとのんびりと走るバスで、ターミナルの方向に向かっていることはわかっても、やたらと小さな道を回ったり遠回りしたりして、いつになったらバスターミナルに着くのかわからなくなってきて、さすがにこちらも焦ってきた。ついにチケットを買ってあったブエノスアイレス行のバスが出発する時間が迫ってきた。 結局、バスターミナルに到着したのは出発時刻の5分後だった。もうなりふり構わずプラットホームまで走った。半分諦めかけながらも、チケット代はどぶに捨てるにはあまりにも惜しい値段だった。ところが、ここが南米であったのが幸いしてか、まだバスは出発するどころか、乗り場に来てさえもいなかった。溢れるように流れ出し始めた汗を拭きながら、その場に思わず座ってしまった。それから10分ほどして、当のバスがようやく姿を現した。2階建てで思わず感激の声を上げてしまいそうな豪華な外観だったが、中に入ると座席が少し狭くリクライニングも普通で、少しがっかりしたが、ブラジルが良すぎただけで、これまでにいろいろな国で乗ってきたバスのことを考えれば十分だった。それでもまた20時間に亘るバスでの移動である。列車とは違い、本を読むわけにもいかないので、ただ外の景色を窓から眺めているしかなかった。 地図で見るとわかるように、アスンシオンはアルゼンチンとの国境からすぐの場所にあるため、バスはほんの少し走ると国境に到着した。ここで乗客の全員が降ろされて、出入国審査がそれぞれの建物で始まった。これがまたやる気のない係官がのんびりと乗客ひとりひとりを相手していくので、とにかく時間がかかった。ようやく最後のひとりまでの出国審査が終わる頃には、すでに昼もとうに過ぎた頃になっていて、お腹が空き始めていた。それはどうやら他の客も同じようで、買っておいたクッキーやチョコレートなどを食べ出している人もいたが、バスターミナルにぎりぎり到着した自分にはそれを買う余裕はなかった。1時間ぐらい走った後、バスはメニューも置いてないような小さな村食堂の前に停まって、そこで昼食の時間が設けられた。簡単な食事で済ませ、またバスに揺られた。アルゼンチンに入ったからといって、特に風景ががらりと変わるとか、道が良くなるということはなく、平坦な荒野が引き続き広がっていた。さすがに外を見ているのも飽きて、ウトウトしたと思ったら、今度はもう夕食の時間となって、これまた小さな食堂で簡単なスープとパンの食事を終えた。ブラジルのバイキング形式の食堂が懐かしくなるとともに、そんな簡単な食事でも値段はかなり高かった。アルゼンチンは物価が高いと聞いていたが、それは予想以上だった。 2006年 02月 14日
1日ほとんど寝ていたのが功を奏してか、体調はすっかり良くなっていた。例の和定食 を食堂で食べているとそこに泊まっていた女性から挨拶された。そのまま彼女は自分の前に座り、一緒に朝ご飯を食べることになった。歳は自分と同じぐらいだと思ったが、やはり彼女も卒業旅行で南米を旅しているとのことだった。そういえば、泊まってきたホテルのせいもあるかもしれないが、この旅に出てから日本人の旅行者と会って話すのはこれが初めてだった。すでに彼女は日本を離れて3週間が経過していて、パラグアイの前はアルゼンチンにいたらしく、この後はちょうど南下してブエノスアイレスを目指す僕とは逆に、北上してバスでボリビアに向かうということだった。確かそのルートは道も悪く、かなりきつい行程になるはずで、彼女もそれを重々承知していたが、なんとかなるでしょと明るく笑い、ちょっとのことで体調を崩している自分に較べて、なんとたくましいことかと恥ずかしかった。 その彼女がバスターミナルでチケットを買うというので、一緒に行ってブエノスアイレスまでのバスを確認することにした。幸いにもブエノスアイレス行のバスはいくつかの会社が運行していて便数もかなり多かった。値段もまちまちだったので、ここは奮発して比較的高めの会社の便にした。それでも出発は朝10時でブエノスアイレスに到着するのは翌朝になるとのことだった。南米は来るのにも時間がかかったが、大陸内を移動するのにも時間がさらにかかった。ヨーロッパのように小さな街が点在しているならまだしも、人が住んでいなくはないが、土地のあり余っている新大陸では、大きな都市間の移動にはこのくらいの時間を要するのが当たり前だった。チケットを手に入れた後、バスでセントロ まで戻った。 コロニアルな建物が多いセントロ の中心にあるのが英雄広場 で、その中にドーム型の霊廟 があり、パラグアイの初代大統領が祀られている。そこからパラグアイ川 の方へ歩いていくと、川を背にして国会議事堂 があり、広いレパブリカ通りを 左に行けば宮殿のような大統領官邸 の前に出た。ガイドブックによれば、この宮殿はパリのルーブル に模して建てられたらしいのだが、ルーブル がこんな風だったかすでに忘れてしまった。結局、1時間もあればセントロ は充分に見てまわれてしまうほどの大きさでしかなく、後はパラグアイ川 の流れを眺めて時間が過ぎていくのを待つしかない。というのも、土曜日の午後のためか街には人がほとんど見えず、静まり返っていた。宿に戻っても仕方がないので、ホテルから近いメルカドクアトロ と呼ばれる一角に行ってみることにした。そうしたらどうだろう、どこに隠れていたのかというほどの凄い人出で、そこには食料品だけでなく、雑貨や衣類などあらゆるものが売られていて、民族衣装に身を包んだ人の姿も多かった。なぜかハングル文字 が書かれた韓国料理屋 が多く、少し入ってみたい気もしたが、パラグアイに来て日本食に韓国料理ではあまりにも偏っているので、またセントロ まで戻り、英雄広場 の前にあるリドカフェ という食堂に入った。厨房を囲むようにカウンター席がある旧式のダイナーのようなところで、適当に注文したら巨大なカツレツが出てきて驚いたが、これがなかなか美味しかった。おそらく今後、パラグアイを訪れることはよほどの事がない限りありえないと思えば、ゆったりと過ごしたここ数日も悪くはないと思った。2006年 02月 13日
起きると体調はだいぶ良くなっていた。ただ油断は禁物でこの日はおとなしくしていることにした。そんな体力が落ちている時にありがたかったのが、日系人が経営するホテルらしく宿泊代に含まれていた朝食が和定食 であったことだった。食べている人は旅行者というよりは現地に出張に来ていたビジネスマン風の人が多く、こんな南米の一小国にまで大変だなあと他人事のように感じた。朝食後は無理をせず、薬を飲んでまた眠った。 再び起きた時には昼過ぎだった。さすがにもう寝てはいられないので、シャワーを浴びてすっきりした後、ホテル内にあったコインランドリーで洗濯をすることにした。できあがるまでの間、すぐ隣にあった図書室のような場所があったので、そこで待つことにしたが、驚いたことにその日発行されたばかりの日本の新聞が置いてあり、無料で読むことができた。今まで、このようなサービスのあるホテルには泊まったことがなく、大都市の空港や駅では辛うじて日系新聞の海外版が売られていることもあったが、それは非常に高く、その値段まで出して読みたいとは思わなかっただけに、他にも置いてあった数日前の新聞や雑誌をむさぼるように読んだが、その頃ちょうど長野で冬季オリンピック が行われているのを、スポーツ欄を見て気がついた。パラグアイから冬季オリンピック に選手が出場しているのかわからなかったが、はっきりいってブラジルとパラグアイではそんなことなど全く話題にものぼっていそうもなかったので、こちらも開催されていることを忘れていた。そんな風にしている間に、洗濯物のすっかりできあがっていた。 パラグアイは国土の広さからいえば日本より少し大きいぐらいだが、人口は540万人しかおらず、首都のアスンシオンもそれほど大きくなく、セントロ と呼ばれる旧市街も歩いてまわれた。泊まっていたホテル内山田 はちょうどそのセントロ から少し外れた場所にあった。天候も良かったので、少し歩いてみることにしたが、人通りが少なくあまり活気が感じられず、暗くなってしまうと治安もそれほど良いとは思えなかった。ここまで書いてあった葉書を出すために郵便局へ行ってみたが、ここも利用客も従業員も少なく、これで本当に中央郵便局 だろうかと思えるほどの規模だった。セントロ の北側にはパラグアイ川 が流れていて、のどかな風景が広がっていたが、ふとラオスのヴィエンチャンを思い出した。ヴィエンチャンもここ以上に何もなかったことを考えながら、パラグアイとラオスには国交があるのか、アスンシオンにラオス大使館 は存在するのか、その前に例えばパラグアイ人でラオスに行ったことのある人、逆にラオス人でパラグアイに来たことがある人がどれだけいるのかなど、本当にどうでもいいことが気になってきた。そんなことを気にしているぐらいだから、よほどすることがなかったに違いない。2006年 02月 12日
朝、どうも体調がすぐれなかった。昨日、滝を見学した際に濡れたままの姿でずっといたのが良くなかったのかもしれない。ただこの日はパラグアイの首都アスンシオンに行くつもりでいたので、朝食を済ませ、エヴェリーナにお礼をした後、国境を越えてシウダ-・エル・エステのバスターミナルに向かった。せっかく少し覚え始めていたポルトガル語もここからはスペイン語に変わった。小さなバスターミナルだったが、カウンターでなんとかすぐに出るアスンシオン行の切符を買うことができ、ブラジルに較べるとかなりくたびれたバスに乗り込んだ。ガイドブックによると、アスンシオンまでは4時間ほどかかるようだった。パラグアイといってもほとんどそれに関する知識はなく、アスンシオンという街についてもそれは同じだったが、だからこそ行ってみて、自分の目で確かめたいという気持ちがあった。バスは本当に何もない草原や荒野の中に伸びた平坦な道を走っていく。それを見ながら、パラグアイという国は土地が余っているなあというのが正直な第一印象だった。バスに揺られているうちに、だんだん体の調子が悪くなっていくのがわかった。どういうわけか、旅に出ると必ず一度はこのように体調を崩すのが常だった。それは旅に出たという興奮で張り切りすぎてしまったせいなのか、それとも異なった環境に体が順応しようとする段階で起こるものなのかはわからなかったが、またやってきたなと覚悟した。ところが、この乗ったバスがどうやら鈍行だったらしく、小さな村や集落に入るたびに乗客の乗り降りがあり、一向にアスンシオンに着く気配がない。そう思うと落胆したせいもあってか、体調はさらに悪化し始めた。そして、予想していたよりも3時間以上、つまり7時間もかかって、ようやくアスンシオンに到着したが、その時には立っているのが辛いほど消耗していた。早く横になりたい一心で、アスンシオンにあった日系人が経営するホテル内山田に電話を入れ、バスターミナルからの行き方だけ教えてもらうと、よろめきながらその番号のバスを見つけ、運転手には降りたい通りの名前を告げて、そこに着いたら声をかけてくれるようお願いした。ところが、もう街中に入ったと思われるのに、運転手は一向に声をかける様子がない。地図を出して、何か目印になるものを探したり、通り名を確認したりすると、なんと降りる場所をとっくに過ぎているのがわかった。急いで降ろしてもらい、悪いことに少し上り坂になった道路を歩き始めて10分、ようやくホテル内山田 に着いた。フロントでは日本語が通じるのがありがたく、鍵をもらい薬を飲むと、すぐに部屋で横になることができた。 どのくらい寝たのかわからないが、起きると汗をびっしょりとかいていた。まだだるさは残っていたが、何か口に入れないとまずいと思い、一度ホテルを出て、すぐ近くにあったガソリンスタンドで水とサンドウィッチを買って食べた。外はもう暗くなっていたので、夜であるのは間違いなかったが、時計を見る余裕もなかった。もう一度、薬を飲んですぎに眠った。 2006年 02月 11日
朝から晴天に恵まれた。エヴェリーナがどのように見学したら良いかを詳細に説明して暮れ、さらにはイグアスの滝がある国立公園の入口まで同じ宿に泊まっていたブラジル人夫婦の車で一緒に連れて行ってもらうことまで手配してくれた。駐車場手前で降ろしてもらうと、そこからは歩いて滝の方へ向かった。まだ滝は姿を見せないが、水が流れ落ちる地響きのような音は聞こえてきて興奮が高まる。途中でこの辺に済みついている野生のアナグマが歩いているのを見かけたが、もう人間の姿に慣れきっているのか、野生といってもすぐそばをなんの警戒心もなく動いていた。そのアナグマに迎えられた直後、目の前に滝がその姿を表した。その規模は自分の想像をはるかに超えていて、幅にしてどのくらいの距離になるのだろう、とにかく横に広い、それも幾重にも重なっていた。青い空、広がる緑、そしてその中を茶色く濁った水が怒涛の如く落ちる様子はまさに世界最大瀑布の名に相応しかった。感動した。これがイグアスなのかと、この旅でも一番のハイライトに考えていた滝を前にして震えるようだった。ところが、その前に広がっている光景はイグアスの一部でしかなかった。実は滝はさらに奥まで続いていて、滝それぞれの形が微妙に違って様々な姿を見せつける。同じ瀑布として比較されることの多いナイアガラだが、はっきりいってこのイグアスと較べること自体がナンセンスであり、規模からいうと足許にも及ばず、ナイアガラはこのイグアスに入ってしまえば、それを形成するひとつの滝でしかないとまで言っても過言ではなかった。ブラジル側では滝のすぐ近くを遊歩道が続いていて、間近に流れ落ちる姿を楽しめた。しかし、そこから湧き上がる水蒸気というか水しぶきで、歩いているうちにびしょびしょになってしまった。 ![]() イグアスの滝はブラジルとアルゼンチンの国境に位置している。ちょうどイグアス川が国境の役目を果たしているが、午前中にブラジル側を堪能した後、一度宿で着替えて、今度はアルゼンチン側に行くことにした。国境を越え、アルゼンチン側の街プエルト・イグアスのバスターミナルから滝までのバスが出ていた。アルゼンチン側はブラジル側よりも上流に位置するため、ちょうど滝が流れ落ちるところを上から眺めることができた。特に300ほどある滝の中でも最大のハイライトである「悪魔ののどぶえ」と呼ばれる滝の真上までボートで行くことができた。ボートは滝が始まる前の穏やかなイグアス川を進んでいくが、もしこのボートが転覆でもしたら、たちまち我々は滝に飲み込まれる運命にあり、けっこうスリリングであった。そして、その「悪魔ののどぶえ」を一望できるポイントに到着した。川をゆったりと流れてきた水が、突然地形の変化により、もの凄い落差で落ちていく様子はまさに悪魔のようで、またそこから響きわたる轟音は安っぽい言い方かもしれないが、自然の偉大さと人間の小ささを教えてくれた。アルゼンチン側では滝周辺のジャングルの中を遊歩道が続いていて、国立公園内に住む貴重な動植物を楽しむことができた。南米に行くと考えた時に、真っ先に訪れたい場所として考えていたのが、このイグアスの滝だった。その期待を裏切るどころか、はるかに上回る雄姿に何度体が震えたかわからなかった。夕方、宿に戻るとエヴェリーナが感想を聞いてきた。スプレンディド・スペキュタクラー・マグニフィセントと英語で知っている限りの単語を並べ、とにかく最高だったと伝えることはできた。この日の客は自分を含めて3人しかいなのだといい、リラックスできると喜んでいた。商売っ気がないと思いながらも、こういったポジティブ思考はぜひ見習いたいと思った。 2006年 02月 10日
フォス・ド・イグアスのバスターミナルに着いたのは朝6時台で、まだ外は暗く、生憎雨も降っていた。これではこの日予定していたイグアスの滝を観光するのは中止しなければならなかったが、まだ時間はいくらでもある。気を取り直して、ターミナル内にあったインフォメーションで目星をつけておいた宿の場所を聞くと、地図と丁寧な英語で教えてくれたので、今度は宿に電話して空きを確認すると、これまたわかりやすい英語で応対してくれ部屋も空いていた。旅ってこんなに簡単なものだったのかと、宿に向かう途中のバスの中で感じていた。宿は街から少しはなれた閑静な住宅街にあり、主人は女性でエヴェリーナといって宿の名前にもなっていて、清潔なベッドが並んだドミトリーは実に快適そうで、1階にあった談話室のような場所も落ち着いた雰囲気だった。雨は止んだようだったが、これから滝に行く気もしないので、どこかないかとそのエヴェリーナに尋ねると、パラグアイ側のシウダー・デル・エステに行ってみてはどうかと言われた。このイグアスの滝のある場所はブラジル・アルゼンチンそしてパラグアイの3ヶ国の国境が接する場所でもあり、パラグアイ側のそこは税金がかからないタックスフリーの街となっており、ブラジルから多くの観光客が国境を越えて買い物に出かけていた。バスは雨で床が濡れていたが滑り止めとしておがくずがばら撒かれていて、拭いてもだめなら吸わせてみようということかと感心した。 国境での出国審査もパラグアイ側の入国審査も簡単なものだった。ブラジルの観光ビザはマルチタイプのものだったので特にここで出国したからといって問題はなかった。われわれ島国の人間にはこの国境という人工的な線は何度通っても面白いものであり、本当に越えた途端に言葉も変われば、街の雰囲気も変わった。雨のせいもあるだろうが、シウダー・デル・エステの街は廃水処理が悪いのか、じめじめしていて暗い雰囲気だった。店というよりは蚤の市のような屋台にビニールシートを被せてあるような程度の場所が多かった。ひと通り見てまわったが、特に欲しいと思うものもなかったので、パラグアイの通貨を少し両替した以外は、すぐにブラジルに戻った。あまりの早さにパラグアイの国境では係官になにごとか言われたが、言っている意味がわからずそのまま出国した。この2国の国境にはイタイプーダムという世界一の発電量を誇る巨大なダムが建設されていた。1日数回のツアーがあるというので行ってみると、運良くすぐにそのツアーが始まった。まずは建設当時からの映像で説明を受けるのだが、言葉がわからなくてもこのプロジェクトの大きさは理解できたが、やはり映像よりも実物はさらに圧倒的で、ダムによりできたパラナ川の湿地帯の広大さと、そこから見える地平線が大陸の大きさを物語っていた。最後にはサイレンの音とともに、一斉に水が放出されて、その水量に圧倒されながらツアーは終了した。夕食はエヴェリーナに薦められたシュラスコ屋に行ってみることにした。シュラスコという名前は知っていたが、実際に食べるのはこれが初めてだったが、いろいろな肉の部分を串刺しにして次々と給仕が運んでくるので、欲しければ合図して少し切り分けてもらえる仕組みになっていた。味は悪くなかったが、塩・胡椒以外にはそんなに味付けもしていないので、それほど多く食べられるというわけではなく、やはり牛肉は焼肉のようにたれをつけて白いご飯と一緒に食べるのが一番美味いと思った。ただお腹一杯食べたにもかかわらず、値段は本当に安かった。 2006年 02月 09日
街の外れにある長距離バスターミナルまではローカルバスで行くしかない。ただ人の少ない時間の利用は気をつけた方が良いと書いてあったので宿の主人に確認すると、全く問題ないという。荷物を持っていても全く大丈夫だというので、それを信じてバス停で待っていると、すぐにバスターミナル行のバスがやってきた。セントロ もコパカバーナ海岸 も確かに危ないのかもしれないが、よほど人気のない場所や危ない所に行かない限り、犯罪に巻き込まれるようなことはなく、それはこのバスでも言えることで、どうも警戒し過ぎたかなと思うこともあった。バスターミナルは古いながらも巨大な建物で、列車網が発達していないブラジルではバスでの長距離移動が主流であるせいか、人もバスの数も多く熱気があった。少し早く着いてしまったが、ターミナル内にはだいたい旅に必要となる店は揃っていて時間つぶしはできた。出発時刻近くになって、バスに乗り込むことができたが、このバスが予想以上に豪華というか、今まで乗ってきたバスどれよりも快適そうなものだった。はっきりいって、ほとんど相場もわからぬままに旅行会社でお願いしたチケットだったが、確かにいい値段ではあった。それもそのはず、おそらく一番良いクラスのバスのチケットだったようで、広々としたシートがほぼ水平に倒れてくれ、隣に座る乗客もいないので、ほぼ2席の水平シートを独占できるのだった。車内の温度設定も、これがアジアならとことん凍えるぐらいの冷房をかけそうなところ、ちょうど良い気温で寒い人用には毛布まで支給されるほどで、運転手の好みがもろに反映するうるさいBGMも全くなかった。車体が高いこともあり、窓から見える景色も良かったので、これなら22時間かかっても文句のひとつも出ない完璧なバス旅行だった。リオデジャネイロとサンパウロを結ぶ幹線道路はほとんどが自動車専用の高速道路で、快調にバスは飛ばしていった。広大なブラジルの土地には様々な地形があるのだろうが、この2都市間は比較的平野が多く、景色も単調で眠くなってきた。途中にダイナーのようなところで昼食休憩が取られた。食堂はセルフサービス式でいくつかの料理が並んでいたが、料金はそれぞれの料理についているのではなく、カウンターの最後にあるレジで何を取ったのかではなく、その全ての重量で料金が決まるシステムになっていた。こういう時、日本人は何をとれば一番お得かなどとけち臭いことを考えてしまいがちだが、ブラジル人にはそんな気もないらしく、好きなものを好きなだけ取っているようだった。値段はわからなかったが、食べたいものを食べようと取ってレジで料金を見ると、本当にこの値段かと思えるほど安かった。ここまで安いとせこい考えも失せるのがわかった。値段のわりに味も悪くなく、バスも快適でここまで順調すぎるのがかえって怖いぐらいだった。 夕方、バスはサンパウロに到着した。さすがにブラジル一の大都会だけあって、街の規模はリオをはるかに凌ぐほどだった。そんなサンパウロを通過したのは、大きいけれどもこれといって見所がないからだった。南米一の日本人街 はあったが、日本を離れてまだ数日しか経っておらず、特に日本が恋しいということもなかった。またサンパウロは広すぎて、どこをどうまわったら良いのかわからなかったのも正直なところだ。サンパウロにて乗客が乗り込んできたので、ふたつの席を使う特権は剥奪されてしまったが、それでもひとり分の水平シートで十分だった。夕食も同じくセルフサービスの食堂だったが、味は昼間に寄った所の方が美味しく少し残念だった。夜行で一晩走れば、朝にはイグアスの滝 観光の拠点となるフォス・ド・イグアスに到着する。 2006年 02月 08日
前日にコルコバードの丘に昇った時はあまりの暑さに長い時間滞在できなかったので、その教訓を生かしてこの日行くポン・ジ・アスカルには朝早くに出かけた。この海岸から突き出たような奇岩も観光名所で、2つのロープウェーを使って頂上まで向かうのだった。まだ8時を少し過ぎたぐらいだったためか、ロープウェーも始発で従業員が一緒に乗って頂上まで向かうといった感じだった。またこのロープウェーは30分に1本ほどしか動いていないというのんびりとしたものだった。頂上には自分を含めて3人ほどの客しかまだいなく、朝のため空気も涼しくて気持ちよかった。なんといっても昨日とはまた違って、今度は海側から眺めるリオの街並みが一望できたのがよく、セントロ近くにあるサントス・ドゥモン空港から飛び立つ飛行機が近くを通っていくのを眺めているだけで時間が過ぎていった。その空港からはサンパウロとリオデジャネイロを結ぶシャトル便が出ているようで、本当に小さな飛行機が頻繁に離発着を繰り返しているのが見えた。2時間近くいたが、段々観光客も増え、日差しもきつくなってきたので、空いているロープウェーに乗って下に戻った。宿で一度シャワーを浴び、着替えるとバスに乗っていよいよコパカバーナ海岸へ出ることにした。海岸では犯罪が多発し注意が必要だとガイドブックには書いてあったので、本当に必要最低限の現金だけで、カメラも持たずに向かった。途中からはバスを降りて歩いて行くと、ついに世界一有名なコパカバーナ海岸に出た。太陽の熱気がすでに砂浜に染み込んでいて、歩くと汗が噴き出してきた。地元の人がビーチバレーをしたり、海で泳いでいたりするのを見るしかないのが悔しかったが、これが憧れの海岸であると思えば納得もいった。さすがにリゾートだけあり、海岸沿いには高級ホテルとレストランが立ち並んでいて、自分が泊まっている宿周辺とは少し雰囲気が違った。それにしても、ブラジルの女性というのは老若男女誰もがビキニ、それもどこでそんなに面積の小さな物が売られているのか不思議なほどのビキニで、逆に何も着ていないよりいやらしく見えた。きっと法律でトップレスは禁止になっているに違いない、そうでなければあそこまで際どいビキニはつけないだろうと考えた。コパカバーナの先にあるのが、これまた有名なイパネマ海岸で、ここもリゾートビーチとして名高い場所だけに、カフェなどには世界中から来たお金持ちが楽しそうに時間を過ごしていた。この2月の中旬からいよいよリオのカーニバルが始まり、この街の興奮の度合いは最高潮に達するのだろう。日程の都合上、カーニバルを見ることはできなかったが、せっかくなら次の機会にリオジャネイロを訪れる時は、カーニバルに合わせて来たいと思った。3日間のリオ滞在はこうして瞬く間に過ぎていった。 ![]() 2006年 02月 07日
さすがに朝早く目が覚めた。ホテルは簡単な朝食がついていたので、それを贅沢にも部屋で食べて、フロントの主人に郵便局の場所を聞くと、親切に教えてくれたがその場所には郵便局はなかった。そこで地下鉄に乗ってセントロ まで行き、中央郵便局 に行くことにした。ところがこの日は土曜日だったこともあり、昨日とは打って変わって街が閑散としていて、閉まっている商店も多く、お目当ての郵便局も閉まっていた。まだ着いたばかりでそんなに葉書を出すのを急ぐ必要もないので、バスでコルコバードの丘 へ登る登山電車の駅まで乗っていった。地下鉄に較べて、バスの方が危険だと書かれていたので、荷物はポケットに少額のお金とコンパクトカメラ、格好も現地人と同じようなTシャツと短パンという出で立ちにしたが、実際に乗ってみると普通の市民も利用しているわけで、特に身の危険を感じることもなく、登山電車駅口に着いた。 さすがにリオデジャネイロで最も観光客が訪れる場所だけあり、ツアー客をはじめとして駅にはすでに長い列ができていた。待っている間に、太陽がどんどん昇ってきて、頭上から強烈な日差しが照りつけてきて暑かった。電車は進行方向右側の席が景色も良くてお勧めとのことだったので、順番がまわってくるとちゃっかりそこに座ることに成功した。20分ほどの場所にある頂上には巨大なキリスト像 が両手を開いてリオの街並みを見下ろしていた。来てしまえばなんてことはない銅像かもしれないが、ここまでの道のりが長かっただけにやはり感動し、さらに丘から眺めるリオの海岸線は少しガスっていて遠くまでは見渡せなくてもやはり一生に一度は見ておくべき価値はあると思えた。とにかく暑かったので売店で水を買って飲んだが、これがとても冷えていて思わず声が出てしまい、生き返った気がした。その後、日本人ツアー客が訪れたようで、女性の多くは日傘をさしたり、長袖のシャツを着ていたりする格好が周りから浮いていて印象的だった。日焼けしたくないその気持ちもわからないではないが、そこまでしてここまで来なくともと、なぜか同胞に思ってしまった。またセントロ に戻ると、朝とは違い多くの店が開いていたが、昼過ぎまでの営業なのですぐに閉まってしまいかねない。リオの後に行こうとしていたイグアスの滝 までのバスを予約しようと一軒の旅行会社に入った。ここでも英語は全く通じなかったので、紙に日付と時間などの簡単なメモとあとは適当に言葉を並べると、陽気なおじさんが理解してくれ、2日後のバスのチケットが手に入った。この代理店の主人もそうだったが、ブラジル人は英語などの言葉はあまり理解できなくても、親切で陽気な人種が多いようで、意思疎通歯取ることができ楽だった。これがラテンの国かと思いながら、この旅初めてのマクドナルド で昼食となったが、ここでも味は世界共通でなぜかハンバーガーを食べている人より、ソフトクリームを舐めている人の方が多かった。その後、ホテル近くのフラメンゴ海岸 やボタフォゴ海岸 に出た。こちらも本当なら水着に着替えて海に入りたかったが、そこは一人旅の常として貴重品の管理方法がないので、シャツだけ脱いで木陰に座って泳ぐ人たちを眺めるしかなかった。相変わらずの暑さなのに、短パンだけでサッカーに興じる集団がいて、よく倒れる人がいないものだと感心するとともに、さすがブラジル人だと唸るほどのテクニックを素人が見せてくれるのにも感心した。 2006年 02月 06日
長い、実に長かった。成田を出発してから数えると4回もの機内食を食べたことになる。日本を発ってすでに30時間近くが経過しており、やはり地球の裏側まで来るのは容易ではなかった。しかもまだサンパウロにいた。ニューヨークからリオデジャネイロに行く直行便はなく、一度サンパウロを経由して向かわなければならなかったからだ。数十分のトランジットと35分の短いフライトの末、本当にようやくリオデジャネイロに到着した。サンパウロであらかたの乗客は降りてしまったので、ここまで来た人は本当に少なかった。それもあってか、入国審査も開いている窓口はひとつだけで、ゆっくりと進んでいき、やる気のない審査官がインクの薄い入国印を押してくれた。ゲートを出てみると、空港は人気も少なく閑散としていた。白タクの運転手らしき男たちがたむろっている以外は、到着した乗客は自分の家族や知り合いの迎えで次々とターミナルの外へ出ていった。確か街に出るには空港バスがあったはずだが、それが出発する場所がわからなく、インフォメーションカウンターにも誰もいなかった。そこでひとつ上の階の出発ロビーに上がると、ようやくカウンターに人がいたが、英語で話しかけてみてもそれが通じない。どんな国でもさすがに空港ではそんな経験はなかったので驚いたが、なんとか身振り手振りで伝えると、ようやくカウンターの女性もわかってくれたようで、わざわざバスの停車場まで連れて行ってくれた。 バスに乗ることはできたものの、今度はどの辺りで降りるべきなのか考えなくてはならない。リオデジャネイロ国際空港は街から15キロほど離れた場所にあったので、30分もすれば街中には入っていくことになる。それまでにある程度、地図と外の景色を見比べて、自分のいる場所を把握する必要があった。予想したとおり、だいたいそのくらいの時間で旧市街らしき場所に入り、今度は海沿いの通りを走り始めた。海岸と道路の間にある砂浜や空き地ではサッカーボールを蹴っている集団がいくらでもいて、ブラジルに到着した気分が盛り上がってきてもおかしくないのに、とにかく今はどこで降りるか必死でそれを見ている余裕はなかった。それでもなんとなくこの辺だろうと目星をつけたフラメンゴ海岸あたりで運転手に告げてバスから降りた。場所によっては治安が良くないと書いてあったので、少し警戒したがまだ日も高く、危険な雰囲気はなかった。運がよかったのか偶然か、バスを降りた場所は泊まろうと思っていたホテルのすぐ近くで、5分ほどでそこに着くことができた。それにしても、ここまでですっかり汗だくになっていた。南半球で2月といえば真夏で、それもリオデジャネイロの日差しは猛烈にきつく、海から来る湿った空気がさらに不快指数を上げていた。泊まる場所も本当はユースホステルにしたかったが、日本から予約を入れたら、あいにく満室で泊まれなかった。そこでロンプラに掲載されていたこのホテルにしたのだが、観光地料金のためか1泊20ドル近くしたが、シングルでバス・トイレにもの凄い音を立てるエアコンもついていたので悪くはなかった。ホテルのあるカテーテ地区はセントロと呼ばれる旧市街とイパネマ・コパカバーナ海岸のビーチに挟まれた中間に位置していて、地下鉄やバスの便が良かった。さっそくその地下鉄でセントロまで出てみた。カリオカという駅が中心だったが、ガイドブックに書いてあったほど治安が悪い印象を受けず、人通りも激しく賑やかだったがマーベラスシティと呼べるほどでもない。ただリオデジャネイロ最大のカンデラリア教会からその先のグアナバラ湾は素晴らしく、かつてはブラジルの首都として栄えたことを窺い知ることができた。だいたい土地勘がでてきたので、両側に商店が並ぶリオ・グランデ大通りで米ドルを両替し、夕食用にサンドウィッチと飲み物を購入するとホテルに戻り、シャワーを浴びるとやはり長旅の疲れか眠気が襲ってきて、まだ旅も始まったことだし、無理することもないので、夕食後はすぐに横になった。とにかくブラジルまでは来ることができた。 |
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